3月23日(土)13時から大仙市はなび・アムで市民講座が開催されました。
講座開催の趣旨は会の研究成果をより積極的に会員以外の人たちへ普及させたいということです。この背景には従来、会の広報・宣伝活動が不足しているのではとの認識がありました。そこで会の活動や研究を一般に紹介することを通じて会への理解を社会に広げ、会員以外の秋田の近代史研究に興味を持っている人たちとのつながりをつくりたいと今回の講座開催となりました。
当日は「大正末から昭和初期の仙北郡青年教育」のテーマで高橋務代表委員により報告が行われました。会員以外の参加者は11名(他に会員が報告者を含めて4名)でした。内容は、実業補習学校が第一次世界大戦以降全国的に整えられ、小学校・高等小学校卒業者に対して男女別に4~5年間、職業・公民教育を行う補習教育機関として小学校に併設されました。南秋田郡旭川農業補習学校の場合は、男子部は年間授業時数220時間でほとんどが1日2時間程度の夜間授業でした。また鎮守祭や農繁期も休業日でした。
実業補習教育に熱心な仙北郡峰吉川村村長進藤作左衛門は、明治期に「他ニ先ケテ青年夜学会ヲ起シ」、村長就任後は「極力補習教育ノ向上ニ力ヲ注キ、農村ノ振興ハ青年子弟ヲシテ専ラ農業ニ開智能ク啓培」させるため大正2年に村独自の農業補習学校を設立していました(大正12年県から文部省への報告)。
大正15年には陸軍省と文部省により、小学校卒16歳以上の勤労男子青少年のための4年制軍事補習教育機関として青年訓練所が設置されました。この結果市町村には小学校、実業補習学校、青年訓練所の3つの教育機関が存在することになりました。
新設時の大曲青年訓練所教育課程では年間授業時数210時間の半分以上110時間が教練で、内容は各個教練・部隊教練・陣中勤務・旗信号・距離測量・軍事講話・体操競技でした(旭川農業補習学校は年20時間ある体操の時間に教練・体操・遊戯が実施)。そのため訓練所は徴兵検査に向けての学校と一般に受け止められていました。訓練所責任者は主事と呼ばれ、仙北郡53訓練所のほとんどの主事は小学校長、実業補習学校長を兼務していました。
昭和初期には恐慌の影響もあり、市町村は実業補習学校と青年訓練所の二重設置の財政負担に苦しみ、昭和5年には経費節約のため両者の合体が行われました。仙北郡内では9校の青年訓練所充当実業補習学校がつくられました(青年訓練所を廃止して、実業補習学校に取り込む)。市町村財政の危機を背景に実業補習学校の中に軍事教育が入ることになったのです。昭和10年には実業補習学校と青年訓練所が完全統合して青年学校が作られ、昭和14年から義務制になりました。
質疑応答では、現在の小学校が戦前の学校資料をどのように保管しているか、実業補
習学校や青年訓練所の具体的な教育内容が知りたい、徴兵検査の実態はどうであったか、女子教育はどうであったかなどの質問が出ました。いずれも秋田の近代史研究を深めるうえで重要な質問でした。
個人的には進藤作左衛門の村独自の青年夜学会・農業補習学校の流れと国の政策としての実業補習学校設置の関係(村独自の動きがどのように取り込まれ、あるいは取り込まれなかったのか)や秋田連隊区司令部が査閲などを通じて青年訓練所や青年学校にどのようにかかわるのかなどに興味を持ちました。
(荒川肇)