秋田近代史研究会

秋田県の近現代史を考える歴史研究団体です。

2026年度 総会・春季研究会終わる

 5月23日(土)遊学舎において10時から総会、13時から春季研究会が開催されました。総会には会員6名が出席、さらに午後からの研究会に会員1名、一般参加者が4名加わり合計11名の出席者でした。東京から堤洋子さんも参加しました。
 高橋務代表委員を議長として2025年度事業報告・決算報告・監査報告、2026年度事業計画・予算案等が審議・承認されました(総会資料は本会報に掲載)。

 主な内容では1年前の総会で承認された本会名の英語表記「Akita Modern History Research Association」を会則第一条に付け加えました。役員改選では工藤一紘に代わり土肥稔が新たな会計監査となり、他は全員留任となりました。

 また本会への寄贈図書類の扱いについて、2年間春季や秋季研究会等で展示・閲覧、希望する会員に進呈。残ったものについては代表委員に処分を一任する事となりました。

 情報交換では、県内の歴史関係団体が高齢化と新入会員不足から急速に会員減少となっている状況の説明がありました。また秋田市が昭和27年の市内地図(三千分の1、建物の輪郭が分かる)を販売しているとの情報がありました。

 13時からの研究会では、最初の報告は高橋一倫氏の「画人 鈴木空如と戦争」でした。焼損前の法隆寺金堂壁画を模写したことで知られる仏画家空如が日清戦争に従軍。

 近衛工兵隊兵士として台湾征服戦争に参加し、家族にあてた戦地からの軍事郵便が現在11通残されています(明治28年5月から同年10月、大仙市役所太田支所太田文化プラザ所蔵)。
 報告はこの軍事郵便の詳細な分析でした。台湾の空如への家族の手紙に押された地元郵便局・広島局・台湾野戦郵便局の各消印日付けを、家族への返信に記すなど几帳面な性格の空如は、戦場の様子を詳細に軍事郵便に記しています。

 注目したいのは病気のまん延です。「台湾到着后ノ発病者多ク、虎列柆(コレラ)・脚気・下痢・赤痢・日射病・台湾熱等」に罹患する者や「炎熱ノ為メ、目ヲ煩ウ」者が続出した結果、小隊40名中「満足ニ勤務ニ堪ヘル居ルモノハ二十名位」とあります。病気のまん延で小隊の半数しか勤務できないというのです。また5週間ほどの後の郵便には「熱病風邪ニ罹りしもの当小隊ニ四分之三」とあり、小隊の75%が熱病風邪という有様でした。全戦没者に占める戦病死者の割合が90%近くで、疾病との戦いだったと言われる日清戦争を如実に表しています。 

 仏画家空如の形成に台湾戦争体験が与えた影響を問う質問が出ましたが、直接の影響は認められず、空如が仏画家となったのは古仏画家の指導者の影響が大きかったとの説明でした。

 空如の軍事郵便には病気以外にも軍事郵便制度や戦地と銃後の交流関係、銃後からの
新聞送付、戦地の食を中心とした生活、捕虜の扱いなどいろいろ興味深い内容が含まれ
ています。研究蓄積の少ない分野ですが、今後さらなる成果が期待されます。

 次の報告は、利部修氏の「近・現代戦争遺跡(土崎空襲)の保存に向けて―考古学的視点から―」でした。最初ここ数年間の戦争関連書籍出版や秋田魁新報の戦争遺跡関連記事の状況、戦争遺跡に関する県教育委員会の対応の説明が行われました。そして戦争遺跡は地表にある建造物や石碑などの地上資料が注目されるが、地下の埋没資料(地下資料)としても存在している。特に太平洋戦争最後の空襲である土崎空襲では爆弾による大穴(ばくだん池)ができた可能性があり、敗戦後の埋立で埋められた当時の戦争関連遺物や日常品が地中から発見されると思われる。土崎空襲の痕跡を伝えるものとして「土崎空爆地遺跡」として周知に取り組むべきであると述べられました。

 具体的には土地利用の際に文化庁への届け出が必要な「周知の遺跡(埋蔵文化財包蔵置)」として遺跡地図に掲載すべきとしました。ミルハス建設現場(渋江内膳屋敷跡)の発掘では戦時中の防衛食器や800発にもおよぶ小銃弾が発見されたとのこと(県教育委員会『久保田城跡』2024)、考古学が近代の戦争遺跡をも射程に入れていることに改めて新鮮な印象を持ちました。
 

 会員の情報提供で、戦争裁判弁護資料として昭和21年1月秋田地方世話部から東北復
員監部へ土崎空襲の被害報告が行われ、その中で米軍の空襲は「計画的又ハ故意ニ非人
道的ナル爆撃所ハ認メス」、つまり「無差別爆撃ではなかった」としているとの説明がありました。B29搭乗員処刑事件に関する戦争裁判との関係が興味深いです。(荒川肇)

歴史情報

・会員の新著紹介

柴田知彰『近代日本の県治体制ー秋田県を事例とする史料学的研究ー』岩田書院 8,000円+税
著者は県公文書館に長く勤務しているアーキビストであり、本書は自身の博士号論文をもとに刊行したもの。県公文書館所蔵資料を分析し、藩政期から昭和30年代まで二百数十年間にわたる藩や県の文書管理制度を解明。「県」が国家と地域の間で果たした役割を明らかにしている。特に戦中・戦後期を扱った第四章が興味深かった。


金森正也『東北と上方を結ぶ藩政史ー後期秋田藩政と館入ー』
清文堂出版 9,500円+税
著者は高校や県公文書館等に勤務しながら近世秋田の研究を続け、多くの成果を上げてきた。退職後は、大坂蔵屋敷留守居役を勤めた「介川東馬日記」の解読に取り組み、本書で秋田藩と深くかかわっていた大坂商人(館入)と秋田藩政の関係を解き明かしている。近世後期、飢饉や藩財政改革に奔走する財政官僚介川の姿が館入との酒席の交流も含めて活写されている。介川については著者の秋田魁新報連載が、『秋田藩大坂詰勘定奉行の仕事』(2021年、秋田文化出版)として出版されている。

・郡役所勉強会
12月20日継続していた伊藤正直論文「水田単作地帯における『地主的地方銀行』群の衰退過程-大正~昭和初期の秋田県を対象として-」終了。先に終了した同氏の「戦時経済体制下の地方銀行―昭和恐慌期以降の秋田県を素材として―」と併せて、伊藤氏の2論文は大正期から戦時体制期にいたる秋田県地方銀行史研究の必読文献です。上記論文でも言及している史料「秋田県下ニ於ケル農業金融」(『日本金融史資料 明治大正編第23巻』)を1月17日、2月21日、3月21日と継続。毎月第3土曜日10時~12時はなび・アム(大仙市)で実施。

・新入会員紹介
髙瀨雅弘さん(弘前大学教育学部・教育学研究科長)と金森正也さん(県公文書館嘱託)が入会しました。二人から自己紹介文が届いていますので、紹介します。
[髙瀨雅弘さん]このたび秋田近代史研究会への入会をお認めいただきました、弘前大学の髙瀬雅弘と申します。もともとは学校資料に基づいた教育史を専門としてきましたが、近年は青森県や岩手県の戦後開拓地をフィールドに、オーラルヒストリーを用いた研究に取り組んでいます。荒川先生とのご縁により、秋田県の戦後開拓史にも関心を寄せるようになり、研究会を通じてこれから学ばせていただきたいと思います。どうぞよろしくお願い申し上げます。

[会報196号で紹介した「農村青少年人口の構成分布に関する調査」(秋田県職業課、1940年刊)を髙瀬さんが分析、論文が科研費報告書(2000年)に掲載されています]


[金森正也さん]この度入会させていただきました金森です。高橋務先生と同じ、1953年生まれです。田口勝一郎先生が会長をされていた一時期会員であったことがありますが、諸般の事情から会を離れていました。研究対象はおもに近世ですが、近現代史の著作をよく読みます。残りの時間を幕末史で過ごしたいと思っています。
車もやらず、情報弱者で会場によっては参加できないことも多いかと思いますが、よろしくお願いいたします。[金森さんの最新作は新著紹介で取り上げています]

2026年春季研究会のお知らせ

秋田近代史研究会・2026年春季研究会のお知らせ
◇日時:5月23日(土)13:00~16:00
◇会場:遊学舎(秋田県ゆとり生活創造センター)研修室1
秋田赤十字病院駐車場に隣接☎018-829-5801
*どなたでも自由に聴講できます(無料)。


■第1報告(13:00~14:30)「画人鈴木空如と戦争」高橋一倫
(大仙市観光文化スポーツ部文化財課主幹、本会会員)
鈴木空如は法隆寺金堂壁画を焼損前に模写した日本画家である。1873(明治6)年現大仙市太田町の旧家に生まれ、1946(昭和21)年箱根湯本で没する。19歳で画家を志し上京するも、日清戦争時兵士として中国大陸、台湾で戦う。戦地台湾からの書簡11通には若き空如が見た戦場のリアルが記され、後に仏画家となった素地がこの戦争にあったと思われる。また書簡からは軍事機密が秋田の小村にまで伝わっていたことがわかり、軍事情報管理の点からも興味深い。
本報告ではこの書簡を紹介し、台湾での空如の足取りをたどりたい。さらに15年戦争期の空如の言動や敗戦直後の書簡草稿を紹介し、日本近代を生きた画人の生涯に迫りたい。


■第2報告(14:30~16:00)
「近・現代戦争遺跡の保存に向けてー考古学的視点からー」利部修
(秋田県考古学協会副会長、日本考古学協会会員)
戦後80年の2025年は県内でも戦争に関する多くの催しが実施、関係する書籍も刊行された。秋田魁新報紙上でも活発に論じられ、県教委による戦争遺跡に関する市町村へのアンケート調査も実施された。しかし調査実施は世論の高まりの結果といえ、消極的姿勢といわれるだろう。
戦争遺跡は石碑等の地上資料だけでなく、地下資料(埋蔵文化財)にも目を向けなければ正当な評価はできない。特に太平洋戦争最後の空襲の歴史的遺産である「土崎空爆地遺跡」は、土崎港被爆市民会議の長年の活動により重要性が明らかになっており、遺跡の周知化は必要不可欠である。市教委や県教委の積極的な対応を願うし、県民も注視する必要がある。

2025年秋季研究会終わる

治安維持法に関する研修会の様子

11月8日(土)神岡農村環境改善センターにおいて秋季研究会が開催されました。参加者は会員6名、一般参加者11名合計17名でした。
10時30分からの報告は高本明博氏(横手市教育総務部図書館課)による「横手図書館移転業務の実践報告」でした。
横手図書館は昨年9月横手駅東口にある横手市生涯学習館(Ao-na)内に移転しました。報告者は旧図書館から新図書館への移転業務の計画から実施に至るまでの実務にたずさわりました。新館用書籍の選定・発注の他に不要な本(除籍資料)の廃棄、旧図書館書棚の解体、9万冊近くの蔵書の梱包・搬入・配架などの多岐にわたる作業を市役所各部署と業者によるプロジェクトチームで実施。
特に横手図書館が所蔵している貴重資料である戎谷南山筆「雪の出羽路平鹿郡」写本や
戸村文庫(複製)、伊藤耕餘文庫などの地域資料は図書館員の手で梱包・運搬して細心の注意を払ったという。さらに書籍や資料の配架や展示では見(魅)せるための工夫を凝らし、移転後の年間入館者数は旧図書館時代の10倍の50万人に達している。また移転を機に貴重資料のデジタル化を推進し、南山筆「雪の出羽路平鹿郡」はデジタルデータで横手市HP上に公開。さらに地域資料の整理、デジタル化を行うイメージアーカイブプロジェクトチームが最近市教育委員会内に発足したという。
最後に地域資料は図書館の「核」であり特色・個性であること、デジタルアーカイブが今後の図書館発展のポイントであると強調した。質疑では寄贈図書の受入れや除籍資料の廃棄処分などについて質問が出ました。新図書館は利用者の視点に立つと同時に地域資料の重要性に配慮した、今最も注目されている図書館の一つであると感じました。

13時から治安維持法に関する研修会として、中澤俊輔氏(秋田大学教育文化学部)による「治安維持法はいかに論じられたか―制定100年を振り返る」でした。「希代の悪法」と言われ法が成立して100年になります。悪法と言われながらその成立過程や改正の事情については充分に理解されてこなかった側面がありました。研修会としたのはその理解を深めたいからであり、最先端の研究をしている同氏に発表を依頼しました。
「戦後の治安維持法研究の整理」、「治安維持法前史」、「治安維持法の成立」、「治安維持法の改正」、「おわりに」という構成で、緻密な史料分析にもとづいて発表が行われました。重要と感じたポイントをいくつかあげると、法案への各政党や省庁間の意見の相違が大きかったことから法成立にあたっては議会多数派の形成と省庁間の調整(特に司法省と内務省)が必要であり、政友会・憲政会・革新倶楽部の連立政権である護憲三派内閣の誕生こそが法成立のカギであったこと。1928年の改正により刑の重罰化と目的遂行罪が新設されたが、後に拡大解釈される目的遂行罪については濫用される可能性を指摘するものは皆無であったこと。治安維持法が猛威を振るったのは1933年前後であり(小林多喜二の虐殺は1933年2月)、太平洋戦争中は法の適用は少なかったことなどがあげられます。

質疑応答では、治安維持法により「日常の行動を決定するものが恐怖という原始的な感情になつてしまつた」と言う清水幾太郎と「自分の体の感覚として治維法に抵抗を感じた人がどれだけいたでしょうか」と言う丸山真男の相反する肌感覚の違いの意味するものや法の成立にあたりイニシアチブをとった司法省刑事局長山岡万之助の官僚としてのその後について質問が出ました。
従来、私は治安維持法を「希代の悪法」としてのイメージだけで、成立は比較的シンプルに「アメとムチ」説で捉えていましたが、連立政権の誕生こそが法成立のカギであったという指摘は驚きでした。政党政治で連立による議会多数派の形成が「悪法」成立に寄与したことは現代政治を考えるうえでも示唆的でした。なお中澤氏のレジュメは会誌64号送付の際に同封されています。ご参考にしてください。(荒川肇)

2025/秋季研究会のお知らせ

2025年秋季研究会を次の内容で行います。多数ご参加ください。


◇日 時:11月8日(土) 10:20~14:30
◇会 場:神岡農村環境改善センター視聴覚研修室
大仙市神宮寺字下川原前開100 ☎0187-72-2777
初めて使用する会場です(かみおか嶽雄館と嶽の湯の間に位置しています)。

◇研究会日程
10:20~ 開会行事
10:30~11:30 報告 高本明博(横手市教育総務部図書館課主査、本会会員)
「横手図書館移転業務の実践報告~地域資料へ新たな光を~」

概要
令和6年9月14日、横手市立横手図書館は横手駅東口に建設された横手市生涯学習館(愛称:Ao-na・あおーな)内に移転した。明治36年に創立された平鹿郡立図書館をルーツとする横手図書館は、120年余の歴史の中で移転を繰り返しており、今回の移転は6度目となる。報告者は令和3年度より横手図書館に勤務し、移転に伴う閉館・引越し作業・新図書館オープンに至るまでの一連の移転業務について、実体験として経験することができた。
図書館にとって地域資料はその地域・図書館の個性をあらわす重要な資料である。
地域資料の保存と活用は図書館の重要な責務の一つである。今回の移転業務においても、所蔵する貴重な地域資料をどのように移転し、新図書館でどのように配架・保存していくかなどについては心を配った。
本報告では、横手図書館移転業務の具体的な実践を報告するとともに、新図書館オープンを契機とした地域資料への光の当て方についても話したい。

11:30~ 質疑応答
12:00~13:00 昼食
13:00~14:00 治安維持法に関する研修会 中澤俊輔(秋田大学教育文化学部准教授)
治安維持法はいかに論じられたのか─制定100年を振り返る─」

概要
1925年に治安維持法が制定されてから、今年で100年を迎えた。同法は日本共産党を禁止するだけでなく、結社・言論の自由を制限し、労働組合や宗教団体、自由主義者をも弾圧した。1945年に廃止されるまで20年の間、猛威を振るい、戦後80年の今もなお「希代の悪法」として語り継がれている。
今回の発表はまず、戦後これまで行われてきた治安維持法に関する研究の動向について整理する。そのうえで治安維持法が制定され、二度の改正を経て、廃止に至り、戦後に「希代の悪法」として記憶される過程について検討する。
治安維持法が1925年に成立したのは護憲三派の連立政権である加藤高明内閣。そして同法の拡大適用を決定づけた1928年の改正を行ったのは、政友会の田中義一内閣でした。政党内閣はなぜ治安維持法を生み、拡大適用への途をつけたのか、国内の政治状況とともに当時の国際情勢と各国の立法と比較しながら説明する。

14:00~ 質疑応答
14:30~ 閉会行事

 

2025年度 総会・春季研究会終わる

挨拶する高橋務代表委員

5月24日(土)遊学舎において10時から総会、13時から春季研究会が開催されました。総会
には会員4名が出席し、午後からの研究会には会員に加えて一般参加者が3名でした。なお久し振りに北海道から猪股良夫さんが参加しました。
高橋務代表委員を議長として2024年度事業報告・決算報告・監査報告、2025年度事業計画・予算案等が審議され、承認されました。さらに日本歴史学協会から求められている本会名の英語表記を「Akita Modern History Research Association」とする提案があり、承認されました(本ページの題字下に入れてあります)。また情報交換では、猪股さんからかつて本会が故髙橋秀夫氏を中心として地域史料を調査・マイクロフィルム化したが、フィルムの所在についての質問がありました。所在不明のようですが、会員の所有する資料を共有化することが話題になりました。

報告者の高橋務氏

13時からの春季研究会最初の報告は高橋務氏の「公文書から見た青年学校教育の展開
過程」でした。従来の実業補習学校と青年訓練所を昭和10年に統合して成立した青年学
校は、尋常小学校や高等小学校を卒業しただけで中等学校に進学しない勤労青少年男女
(同世代のほぼ85%を占める)に対して職業や実際生活に必要な知識技能を授けることが目的でした。さらに昭和14年男子は青年学校就学義務(12歳以上19歳までが対象、企業内にも青年学校が設置)となり、昭和22年まで存続したという。青年学校は全国の10代の勤労青少年のほとんどを対象としながらも、敗戦直後の史資料処分や小学校に併設され独自の校舎を持たなかったなどのため戦後の認知は低く、県内の実態解明は旧本荘町に関する佐藤俊介氏(本会員)の研究成果以外これまでありませんでした。高橋氏は横手市公文書館所蔵の町役場文書や当時実際に使われていた教科書などの分析により青年学校の教科科目や時数、時間割、学習内容を明らかにしました。さらに昭和16年5月皇居で実施された青年学校生徒への天皇御親閲記念の写真帳からは県内各地の青年学校生徒が参加している様子が確認できました。参加者からは父親の昭和21年卒業の青年学校卒業証書や教練として遠泳・投てき・柔剣道などが実施された話題が出されました。

 

青年学校は「勤労青年の心身の成長にとって大切な時期を国家の制度として教育の対
象に取り入れたことは、日本の教育史上前後に例を見ない試みであった」(『昭和戦前期
の日本』)とされていますが、解明されていない部分が多いです。今回の報告は青年学校
の実態解明に大きく貢献するものでした。

報告者の柴田知彰氏

次の報告は柴田知彰氏の「近代日本における県治体制の構造に関する研究―秋田県を事例とする史料学的方法を用いた分析―」でした。会報前号にも記したように、このテーマで3月に筑波大学から博士号(論文博士)が授与されました。博士論文は近代における県レベルの地方制度である「県治体制」の構造を秋田県を事例に文書管理と郡役所の視点から分析し、形成から確立、変容、戦後への関係をあきらかにしたものです。報告の前半は論文執筆のきっかけや完成までの苦労話が紹介されました。本職を持ちながらのため早朝の時間帯を論文執筆にあて完成まで7年半かかったこと。この間親族の入院や論文審査当日の交通機関のトラブルがあり対応に苦慮したことなどが話されました。
報告後半は論文の紹介で明治40年代に完成を見た県治体制の構造は大正後期の郡会と
郡役所廃止、そして昭和17年総力戦遂行の現地実行機関である地方事務所設置の二つの
時期を画期としてドラスティックに変化するとしました。地方事務所は郡役所よりもは
るかに強力な権限を持つ画一的な中間機関でした。敗戦後の占領下では、県治体制の構
造は GHQ民主化指導により制度上は根本的に変化したように見えるが、実態は戦中
からの統治機構と文書管理規定を基盤に、公職追放以外の職員が戦中から引き続き文書
処理を実施していました。また地方事務所も戦時中の権限をそのまま保持し、今度は民
主化政策の現地実行機関として存続しました。この県治体制の構造は基本的には現在に
至るまで連続していると説明しました。
報告に取り上げた鉱煙害に関する北秋田郡役所文書に関連して、参加者から明治40年前後の大館地区から北海道への団結移住に鉱煙害や鉱毒水問題が関係していること、また小林多喜二家の下川沿村(現大館市)から北海道小樽への移住にも同様な背景があるとの情報提供がありました。個人的には昭和17年地方事務所設置にあたり大きな功績があったという県職員小畑勇二郎の役割に興味を持ちました。論文は近いうちに岩田書院から出版されるそうです。大いに期待したいと思います。 (荒川肇)

妻沼町事件被害者とされる田根森村出身青年の氏名について

関東大震災の混乱の中、埼玉県妻沼町秋田県田根森村出身21歳の青年が殺害されたと以前会報200号、2005号で紹介しました。実はこの青年の氏名がはっきりしていません。
当時の東京日日新聞埼玉版によると被害者は足尾銅山製缶職工、氏名は10月18日付記事に「戸森友次郎」(傍線は筆者、以下同じ)、10月21日付夕刊記事に「戸巻友次郎」とあります。また『現代史資料(6)』(みすず書房)収録の司法省作成「震災後に於ける刑事事犯及之に関連する事項調査書」(後藤新平文書)には「戸差友治郎」とあります。つまり姓について「戸巻」、「戸森」、「戸差」と混乱があります。
吉村昭関東大震災』は『現代史資料(6)』を参考にしたと思われ、被害者を「戸差友治郎という秋田県出身の労働者」と記述しています。
「戸差友治郎」とある資料は『現代史資料(6)』「資料解説」には「説明文の多くは毛筆書き」とありました。そこで『現代史資料(6)』の翻刻者が毛筆書きにするとよく似ている「巻」を「差」と読み間違え、「戸差」とした可能性を考えましたが、原本の存在は確認できませんでした。
ただ震災当時司法省行刑局長であった山岡萬之助関係文書中に同名の謄写版資料があり、国立国会図書館憲政資料室で閲覧が可能と知りました。確認したところ被害者氏名は謄写版で「戸巻友次郎」とありました(左図参照)。「友次郎」が「友治郎」となったことも含めて毛筆書きの資料を翻刻する過程で読み間違いがおきたのかもしれません。
後藤新平文書中にあったはずの毛筆書きの資料はいまだ確認できませんが、これでほぼ「戸差友治郎」は無くなったのではないかと思います。また「戸巻」と「戸森」の混乱は当時の新聞の校正事情から判断できそうです。

ただ東京日日新聞記事中の青年の住所「平鹿郡田根森村大字八粕二七」が確認できないこと(「八粕」は実際に存在する地名「八柏」の可能性がありますが、会報205号で取り上げた墓地の地域とは異なります)、足尾銅山で製缶職工として働いていたことの意味など解明すべきことは多いです。

(荒川肇)

謄写版資料