秋田近代史研究会

秋田県の近現代史を考える歴史研究団体です。

秋田近代史研究会市民講座開催される

3月23日(土)13時から大仙市はなび・アムで市民講座が開催されました。
講座開催の趣旨は会の研究成果をより積極的に会員以外の人たちへ普及させたいということです。この背景には従来、会の広報・宣伝活動が不足しているのではとの認識がありました。そこで会の活動や研究を一般に紹介することを通じて会への理解を社会に広げ、会員以外の秋田の近代史研究に興味を持っている人たちとのつながりをつくりたいと今回の講座開催となりました。


当日は「大正末から昭和初期の仙北郡青年教育」のテーマで高橋務代表委員により報告が行われました。会員以外の参加者は11名(他に会員が報告者を含めて4名)でした。内容は、実業補習学校が第一次世界大戦以降全国的に整えられ、小学校・高等小学校卒業者に対して男女別に4~5年間、職業・公民教育を行う補習教育機関として小学校に併設されました。南秋田郡旭川農業補習学校の場合は、男子部は年間授業時数220時間でほとんどが1日2時間程度の夜間授業でした。また鎮守祭や農繁期も休業日でした。


実業補習教育に熱心な仙北郡峰吉川村村長進藤作左衛門は、明治期に「他ニ先ケテ青年夜学会ヲ起シ」、村長就任後は「極力補習教育ノ向上ニ力ヲ注キ、農村ノ振興ハ青年子弟ヲシテ専ラ農業ニ開智能ク啓培」させるため大正2年に村独自の農業補習学校を設立していました(大正12年県から文部省への報告)。


大正15年には陸軍省と文部省により、小学校卒16歳以上の勤労男子青少年のための4年制軍事補習教育機関として青年訓練所が設置されました。この結果市町村には小学校、実業補習学校、青年訓練所の3つの教育機関が存在することになりました。

新設時の大曲青年訓練所教育課程では年間授業時数210時間の半分以上110時間が教練で、内容は各個教練・部隊教練・陣中勤務・旗信号・距離測量・軍事講話・体操競技でした(旭川農業補習学校は年20時間ある体操の時間に教練・体操・遊戯が実施)。そのため訓練所は徴兵検査に向けての学校と一般に受け止められていました。訓練所責任者は主事と呼ばれ、仙北郡53訓練所のほとんどの主事は小学校長、実業補習学校長を兼務していました。


昭和初期には恐慌の影響もあり、市町村は実業補習学校と青年訓練所の二重設置の財政負担に苦しみ、昭和5年には経費節約のため両者の合体が行われました。仙北郡内では9校の青年訓練所充当実業補習学校がつくられました(青年訓練所を廃止して、実業補習学校に取り込む)。市町村財政の危機を背景に実業補習学校の中に軍事教育が入ることになったのです。昭和10年には実業補習学校と青年訓練所が完全統合して青年学校が作られ、昭和14年から義務制になりました。


質疑応答では、現在の小学校が戦前の学校資料をどのように保管しているか、実業補
習学校や青年訓練所の具体的な教育内容が知りたい、徴兵検査の実態はどうであったか、女子教育はどうであったかなどの質問が出ました。いずれも秋田の近代史研究を深めるうえで重要な質問でした。


個人的には進藤作左衛門の村独自の青年夜学会・農業補習学校の流れと国の政策としての実業補習学校設置の関係(村独自の動きがどのように取り込まれ、あるいは取り込まれなかったのか)や秋田連隊区司令部が査閲などを通じて青年訓練所や青年学校にどのようにかかわるのかなどに興味を持ちました。

 

(荒川肇)

 

2024/総会・春季研究会のお知らせ

2024年度総会・春季研究会を次の内容で行います。多数ご参加ください。
◇日 時:5月25日(土)10:00~16:00
◇会 場:秋田県生涯学習センター 5階 和室
秋田市山王中島町1-1 ☎018-865-1171

◇総会・研究会日程
10:00~12:00 総会・情報交換

12:00~13:00 昼食

13:00~14:00 報告1 菊池保男(「能代山本の先人たち」実行委員会代表、本会会員)

「北羽新報に掲載中の『能代山本の先人たち』について」

概要
能代山本の先人たち」は、2年前の8月から約100人を地元誌・北羽新報に月2
人のペースで掲載することにして始まり、4月で64人が掲載済みです。
本報告では最初にどうしてこのような「企画」をたてたかについて、2018年『能
代市史』が「近世通史編」の刊行で終わったことと関係させて説明します。
次にどのような観点から約100人を選出したか、さらに執筆陣をどのようにして
決めたかについて説明します。そして北羽新報に掲載するに至った経緯について説
明します。
最後に今まで取りあげた先人に対する「反響」のほか、他の人が書いた「原稿」
を小生が目を通した後、北羽新報に送る事にしていることから生じてくる「問題」
について話して報告を終えたいと思います。

14:00~14:20 質疑応答

14:30~15:30 報告2 安田隼人(前小坂町立総合博物館郷土館学芸員)
「観光地としての十和田湖をめぐって-ツーリズムからナショナリズムへ-」
概要
近世以前の十和田湖は霊山として信仰の対象であった。それゆえに女人禁制や十
和田湖にいたるまでの険峻な道程は修行であり、不便であることが信仰として重要
な意味を持っていた。

しかし近代に入り十和田湖の開発が進むとその風光明媚さから観光地と見出され
た。鳥谷幡山、鳥谷部春汀の働きかけにより大槻桂月と平福百穂十和田湖を訪れ、
この紀行文が雑誌『太陽』に載ると次第にその熱を帯びていった。これは和井内
行や青森県知事武田千代三郎らによる国立公園指定運動、新日本八景選定につなが
る。新日本八景選定は大阪毎日新聞社東京日日新聞社のメディア・イベントであ
るが、鉄道省が後援したことによりツーリズム空間はさらに拡大した。「郷土の熱
狂」は拡大した空間によって共有され、「日本なる風景」を形成していった。
さらに「帝国」の拡大によって、「日本なる風景」の周縁は拡大された。同時に
中心部の濃度は濃縮されていったと考えられる。

15:30~15:50 質疑応答 16:00 閉会行事

2023年秋季研究会終わる

報告者の髙村恵美氏

11 月4日(土)秋田県生涯学習センターにおいて秋季研究会が開催された。当日は、東
京からの堤洋子さんや発表者を含めて7名の参加であった。
最初情報交換が行われ、多くの話題が出た。


1つだけあげると『神無き月十番目の夜』という小説が紹介された。紹介した会員によると常陸佐竹氏に関係する報告を聞くのであれば是非読むべきであると、職場の同僚が紹介してくれたとのこと。


報告は常陸大宮市教育委員会の髙村恵美氏による「常陸佐竹氏の記憶と水戸領民」であった。
佐竹氏は平安後期以来の歴史を持ち、常陸国北部・鹿行地域・奥州南部の 55 万石に及
ぶ広大な地域を支配。しかし関ケ原の戦い後、慶長7(1602)年出羽秋田 21 万石に減封。
そのため多くの佐竹家臣団が農民となり土着、水戸藩領民となった。水戸藩ではこのよ
うな由緒を持つ農民を地域指導層として支配機構に組み入れ、村社会の秩序維持をはか
ろうとした。しかし土着した佐竹旧臣は新たな支配権力に従いながらも、家の歴史を裏
打ちする旧主佐竹氏との由緒(つながり)を求めたという。
旧主との由緒を考えるうえで重要なものに、水戸領民の旧家に残る「官禄証」がある。
「官禄証」は主君から戦功により与えられる官途状を模してある。鎌倉から戦国時代の
佐竹家臣であった先祖の武功を示すものが多いが、後世の創作と考えられる。常陸大宮
市内にはこの「官禄証」と記述が合う系図を対で所持している旧家が複数確認できるという。
個人の由緒意識が地域結合として現れたのが、小場義実の墓の改葬をめぐる争いであった。小場義実は佐竹氏の内紛である部垂の乱で天文9(1540)年に自害する。その墓を 200 年後になって部垂氏の旧領部垂村から、小場氏の旧領小場村常秀寺に移そうとす
る動きがおきた。移そうとする常秀寺僧侶とこれを阻止しようとする部垂村役人(部垂
氏旧臣の子孫)の争いに発展した。
部垂の乱は、佐竹 16 代義篤と弟の部垂義元の 12 年もの内紛だった。天文9年義篤の
部垂城攻撃により部垂義元と子は死に、偶然部垂城に居合わせた(一説には加勢のため参戦した)小場義実も自害した。この結果部垂氏は断絶、一方小場氏は存続する(小場氏は佐竹 10 代義篤の子義躬が常陸国小場に住したことから始まる。移封に伴い秋田に入り、最終的に大館城代となる。後に佐竹姓を許され佐竹西家を称し、御苗字衆として一門の中でも重きをなす)。敗れた部垂義元父子、小場義実の3人の遺骨は部垂氏旧臣が埋葬し、部垂城跡にある墓所を管理してきたという。
残された訴訟書類によると、小場村への改葬を企図した同村常秀寺僧大車とこれを阻
止しようとした部垂村庄屋立原伝重(義元宿老の子孫で墓所の管理者)が争いの当事者
であった。争いは寛保元(1741)年 10 月大車が佐竹西家当主義村に宛てた書状から始ま
った。「部垂城跡にある小場義実の墓がさびれ、管理する者もないので小場村に改葬したい」という内容であった。翌年2月には佐竹西家家臣から大車に、「小場村へ改葬することに支障ない。墓の移転料として金5両遣わす」との返信が来る。
これに対して部垂村庄屋立原伝重は「部垂義元の宿老が他家の小場義実を自らの主同
然に取り計らい、3人の葬送・建碑を行ったものである。墓域から義実の遺骨だけを選
び出すことは不可能であり、改葬も石碑を遣わすこともできない」と訴えている(寛保
4(1744)年2月カ)。さらに立原は延享元(1744)年3月郡奉行に、「35,6 年前に佐
竹西家家臣二人が小場へ来た際、部垂にも来て墓参をした。その時両人より断絶しない
ようにと頼まれた。そのため今も墳墓を維持している」と主張した(実際の佐竹西家家
臣の訪問は 29 年前の正徳5(1715)年6月(『常陸御用日記』))。
改葬をめぐる争いで、大車は佐竹西家や水戸藩寺社奉行所と連携し、墳墓の適正な管
理のためとして改葬計画を進める。さらに部垂の乱と小場義実との関わりは偶然の参戦
であり、本人の意思で加勢したわけではないと主張した。この主張には反乱者である部
垂父子との合葬を否定することで、佐竹本家への小場氏(佐竹西家)の忠義心を示すね
らいがあったのではないかと考えられる。また大車の背後には、土着した小場氏旧臣の
支援があったことも想定できる。一方改葬に抵抗する部垂村庄屋立原伝重は、部垂氏旧
臣が3人の墳墓を作り代々維持に尽力してきたのは、主君であった義元への忠義心と加
勢してくれた義実への厚恩からであると主張した。
以上から改葬をめぐる争いは、部垂氏と小場氏各旧臣の由緒の正当性をめぐる争いで
もあったということができる。なお延享2(1745)年改葬が実施され、小場義実の墓は
小場村常秀寺境内に移されたという。
報告を聞いて、常陸に土着した佐竹旧臣が偽文書とも考えられる「官禄証」や系図
調製し受け継いでいることや小場義実死去から 200 年後の改葬をめぐる争いと佐竹西家
のかかわり、正徳5年佐竹西家家臣の常陸来訪の際に多くの旧臣が接触を求めてきたことなどを考えると、従来の秋田藩研究で見過ごされていた分野があったのではないかと
思う。秋田藩側から常陸に残された佐竹旧臣との関係を解明していく必要を感じた。
また 2022 年秋季研究会で清水翔太郎氏により、「佐竹義和『名君』像が明治末年以降
の旧藩士による顕彰活動で作られた」という報告(「近代における秋田藩主佐竹義和の顕
彰と旧藩士」)があった。旧臣がかつての主君との関係をどのように認識し位置づけるか
(由緒づけるか)という点で、清水報告と今回の髙村報告は関連があると感じた。
現在でも茨城県、特に常陸大宮市などの県北部では「佐竹氏」は鉄板ネタであり、関
係する講演会は絶対に人がはいるとの話であった。髙村氏には親族の急病にもかかわら
ず都合をつけて来県してくれたことに感謝するとともに、近世秋田と常陸の関係を気付
かせてくれたことを有難く思う。
午後からは「秋田藩における常陸へのまなざしと記憶」のテーマで出席者による座談
会が行われた。過去に横手郷土史研究会や常陸佐竹研究会などの歴史研究団体が相互に
関係地を訪問して探訪・調査が行われたこと、横手城下に移住した茂木百騎の現状、秋
田藩の元禄修史事業での常陸調査内容、秋田藩の飛び地下野国薬師寺村の情報収集拠点
としての役割など話題は多岐に及んだ。

2023/秋季研究会のお知らせ

永遠に続くように思われた猛暑もやはり終わり、秋が深まる季節となりました。さて
秋季研究会を次の内容で行います。春季研究会に引き続き秋田市での実施となっていま
す。新型コロナ感染対策にご留意のうえ、多数ご参加ください。
◇日 時:11月4日(土) 10:00~14:30
◇会 場:秋田県生涯学習センター 5階 第3研修室
秋田市山王中島町 1-1 ☎ 018-865-1171

◇研究会日程
10:00 ~ 10:30 開会、近況報告・情報交換
10:30 ~ 11:30 報告 髙村恵美(常陸大宮市教育委員会)
常陸佐竹氏の記憶と水戸領民」

概要
平安時代後期以来、常陸国を所領としていた佐竹氏は、関ヶ原合戦の後に羽州
田に転封となった。大幅な減封により、家臣団の多くが土着した常陸国では近世水
戸藩社会においても、旧主である佐竹一族との由緒を希求する人々が多く見られた。
水戸藩は藩政初期から、佐竹氏とのゆかりをもつ百姓を村役人等の地域指導層とし
て支配機構に組み入れ、村社会の秩序維持を図ろうとする。新たな支配権力に従い
ながらも家の歴史を裏打ちする旧主とのつながりを求めた水戸領民と地域の実相を
検討する。
11:30 ~ 12:00 質疑応答
12:00 ~ 13:00 昼食
13:00 ~ 14:30 座談会

テーマ「秋田藩における常陸へのまなざしと記憶」

概要
横手城下に移住した精鋭軍団茂木百騎、秋田藩家蔵文書で中世常陸とつながる元
禄の修史事業、下野国薬師寺村にあった秋田藩飛地の役割などの話題提供を通じて
髙村報告とあわせ近世秋田と常陸の関係について明らかにしたい。

 

第 53 回空襲・戦災を記録する会 秋田大会

『第 53 回空襲・戦災を記録する会秋田大会~秋田から考える戦争最末期空襲』
- 日本本土に対する「最後の空襲」の実相 -

2023年8月25日(金)~27日(日)

オプショナルイベント同時開催(8/27~28)

空襲・戦災を記録する会は、第53 回全国大会を秋田市にて開催いたします。
本大会は、故・早乙女勝元氏らと各地の市民の手によって、空襲・戦災を記録し、実相を体験者の証言や米軍資料に求め、市民に語り伝える
取り組みが全国に広がったことを受けて、1970 年に交流の場として第1 回・東京大会を開催したことに始まりました。
23 年目の第53 回大会では、久しぶりに東北地方・秋田で開催します。
秋田市北西部の土崎地区は、1945 年 8 月 14 日夜半から 15 日の未明にかけて空襲を受け、大きな損害を被りました。
この空襲は、戦争末期に行われた「石油作戦」のひとつとして旧日本石油秋田製油所を標的としたもので、アメリカ軍は日本の降伏時に全国で
行った一連の「フィナーレ(幕切れ)爆撃」として位置づけています。これは、8 月15 日未明の悲劇として語り継がれてきた、熊谷、伊勢崎、
大阪陸軍造兵廠などを目標とした空襲のひとつでした。
今大会ではこうした戦争最末期の空襲に焦点をあてつつ、全国各地からの調査・研究の成果を持ち寄って議論を深めたいと考えています。
コロナ禍で培ったオンラインでのつながりも大切に、今大会もハイフレックス方式で開催いたします。お好みの方法でご参加ください。

 

対面方式会場(現地参加は申込先着150名様まで) 秋田大学 手形キャンパス 

〒010-0852 秋田県秋田市手形学園町1−1

オンライン方式会場 Zoom使用(参加者には後日URLを送付します)

日程概要

8月25日(金)   夕方~夜 空襲資料研究会

8月26日(土) 午前  空襲資料研究会

8月26日(土) 午後 記念講演 「地域における継承的アーカイブと学校教育での活用―秋田県を中心に―」 外池智さん(秋田大学大学院教授) 

シンポジウム 「秋田から考える戦争最末期空襲    ―日本本土に対する「最後の空襲」の実相―」

8月26日(土) 夜     懇親会を予定(※要申し込み)

8月27日(日)午前  各地の活動・自由報告

現地オプショナルイベント(土崎港被爆市民会議主催)

8月27日(日)  14時~17時半 

1.「米軍の石油作戦と土崎空襲」講師 工藤洋三さん

2.土崎空襲史跡のバス見学会8月28日(月)9時~16時(予定)           男鹿半島バスツアー(※要申し込み、有料)

※日程・プログラムについては、変更になる可能性があります。

参加方法

①対面方式で参加される方(先着150名様まで)・当日会場にお越しください。

参加費2,000 円は会場で現金にてお支払いください。カード決済・ICカード決済などはご利用いただけません。

②オンライン方式で参加される方 ・申し込み終了後、振込方法に従い、参加費の振込をお願いいたします。・登録と振込が確認できた参加者の方には、原則として開催日の3日前までに、ZOOM参加用URL・ミーティングID・パスワードをお申込みいただいたメールアドレス宛てに送付します。

参加申込み 

以下のいずれかでお申し込みください。

①現地参加の場合は、以下オンライン登録フォームに7月10日(月)までにご登録ください。(現在も受付中)②オンライン参加の方も「オンライン登録フォーム」で8月21日(月)までに登録してください。

③上記登録フォームで申し込まれない場合は、7月10日(月)までに別添「参加申込書」を郵送してください。

送付先 〒745-0121 山口県周南市須々万奥286-3 工藤洋

参加費  2,000円        

・対面、オンライン方式とも3日間共通で、学生・大学院生の方は無料です。

※土崎港被爆市民会議主催の男鹿半島ツアー(28日)については、別途料金を7月31日(月)までにお振り込みいただくことになります。振込み先は参加費お支払い方法をご覧ください。

※懇親会 4,000円(予定)現地参加の方で、懇親会[8月26日(土)]に参加される方は、7月10日(月)までにオンライン登録フォームにお申し込みの上、現地でお支払いください(現在も受付中です)。

 

 

2023/総会・春季研究会終わる

春季研究会で挨拶する高橋代表委員

5月 27 日(土)秋田県生涯学習センターにおいて 10 時から総会、13 時から春季研究会が開催され、9名の会員が出席しました。高橋務代表委員を議長として 2022 年度事業報告・決算報告・監査報告、2023 年度事業計画・予算案、名誉会員、役員改正等が話し合われ、決算・予算案等承認されました。名誉会員については 90 歳以上で、今まで会の活動に参加してきた等からある人物が提案されました。また役員改選では別記のように提案され、承認されました。
質疑の中で県南中心の事業や対外発信の強化、郡役所勉強会の名称について等の意見が出されました。その他では山下太郎地域文化奨励賞応募の説明がありました。
総会後の情報交換では、柴田知彰氏から県公文書館開館30周年記念の各種事業説明がありました。また菊池保男氏から北羽新報連載中の「能代山本の先人たち」についての紹介と佐竹南家日記の解読・普及活動からみた県北と県南の文化性の違いについての指摘がありました。高本明博氏から来春、横手駅前の複合施設内に置かれる新横手図書館についての説明がありました。筑波大学大学院生の山本祐麻(ゆうま)氏から自己紹介がありました(会報 186 号にも新入会員として掲載しています)。

 

報告者の高橋務氏

13 時からの春季研究会最初の報告は高橋務氏の「秋田の『青年訓練所充当実業補習学校』について」でした。第一次世界大戦をきっかけに国民教育が総力戦対応の鍵であるとして、大戦後世界的に始まる実業補習教育の動向から説明しました。
日本では大正 10 年に、小学校卒業後「職業ニ従事スルモノニ対シ職業ニ関スル知識技能ヲ授」けるために、4~5年間かけて職業準備教育を行う機関として実業補習学校が小学校に付設されることになる。一方大正 14 年の宇垣軍縮のもと中等学校以上に対して配属将校制度が定められると、翌大正 15 年には陸軍省と文部省の協力で中等学校に進学しない勤労男子青少年に対して教練を教える機関として青年訓練所が設置され、県内でもほとんどの市町村に置かれる(同年郡長、郡役所の廃止)。内容は「訓練時数ハ四年ヲ通シテ修身及公民百時、教練四百時、普通学科二百時、職業科百時」であったという。(卒業生には陸軍の場合在営期間短縮の特典があった)。これにより小学校を卒業した勤労男子青少年は実業補習学校と青年訓練所の二つに在籍することになる。実業補習学校は文部省実業学務局が、青年訓練所は普通学務局が管轄したが、昭和4年社会教育局の成立とともに両者は同局青年教育課が管轄することになる。両者とも小学校に併設され、小学校教員が教官・指導員を兼務した(青年訓練所の場合はさらに在郷軍人も指導員)。そのため市町村は実業補習学校と青年訓練所の二重設置にともなう負担に苦しむことになるという。
そのため負担解消をめざす意味もあり、昭和4年から実業補習学校に青年訓練所を統合(充当)する「青年訓練所充当実業補習学校」が県の認可で成立する。青年訓練所的機能を持つ実業補習学校の成立ということになる(昭和 10 年には実業補習学校と青年訓練所を合体して青年学校となる)。昭和8年日本青年館で行われた実業補習教育の記念式典では県内から石沢・平沢・西目・金足東の4実業補習学校と石沢農業補習学校長猪股
徳円、峰吉川村長進藤作左衛門、秋田県視学佐々木良助ら6名の人物が表彰されている。
今後これらの表彰された学校と人物を調査することで青年訓練所充当実業補習学校の実態をあきらかにしたい。
報告後の質疑では由利郡石沢村の猪股徳円についての情報提供や充当実業補習学校に関する県の調査に対して町村の理解がブレているのは郡役所廃止の余波ではないか、文部省や陸軍の理念は町村において貫徹されたのか等の指摘がありました。

 

報告者の山本祐麻氏

次の報告は山本祐麻氏の「第一次企業勃興期における田口卯吉の実業活動と経済思想―花岡鉱業会社創立事業を中心に―」でした。
田口卯吉は明治期の経済学者・歴史学者として知られるが、「東京経済雑誌」を創刊し自由主義経済論の立場から保護貿易論や政府の経済政策を批判、両毛鉄道会社社長をつとめるなど実業界でも活躍した学者の枠を超えた経済人である。
田口は第一次企業勃興期(明治 19 ~ 23 年)に両毛鉄道会社と秋田県北鹿の花岡鉱業会社創立の実業活動を展開している。今報告は花岡鉱業会社創立における田口と地元の地方名望家との双方向的な影響関係(協働関係)を明らかにするものであった。
花岡鉱山の採掘権をめぐっては仙北郡の大地主池田家、小坂鉱山を経営する藤田組、地元士族で名望家の横山勇喜・古内忠治の三つ巴の競合があった。池田家と藤田組に対抗するため横山・古内は田口を頼る。当時の鉱山業を「山師」の仕事であると批判していた田口は、花岡鉱山をめぐる競合に参加することで自身が掲げる「新事業」論を実践しつつ、北鹿地域における鉱業を「堅実」なる事業へ導こうとしたのである。田口は東京の資金調達や政治家との交渉、定款・予算案の作成を担当する。結果明治 21 年には花岡鉱業会社が設立され、田口が社長に就任する。
この過程で田口は地価金1万円以上の財産を持つ地方名望家が西洋の技術を学んで政商から自立的に事業経営すれば「山師」から脱し、産業資本家に転身できると説いた。
農商務省や政商資本から自立する田口の経営論の影響を受けた横山は、当初予定した藤田組製錬炉使用ではなく自前の製錬所を建設した。さらに地方自治の精神のもと補助金に頼らないインフラ整備の考え方で、県会で北鹿地域鉱業のさらなる発展のための道路整備論を展開するが否決されてしまう。
農商務省の前田正名や和田維四郎による法整備の結果、鉱業では政商資本の「金力世界」がより強化され、地方名望家を中心とした鉱業は難しくなっていく。この後田口は
貿易に期待するようになり、「海軍増強」論を唱え、対外硬派の一翼を担うことになるという。
報告後の質疑では秋木の創業者井坂直幹と田口の類似性や伝記研究では花岡鉱業会社創立事業に触れられていない理由について等の指摘がありました。

 

(荒川肇)

2023/総会・春季研究会のお知らせ

今春は異常に早く桜が満開となり、4月下旬には県内各地ほとんど葉桜となってしま
いました。これも地球温暖化の影響でしょうか。県内の新型コロナ感染者は累計で20 万
人を超え、県民4~5人に1人が感染者という状況です。ウィズコロナで日常生活が通
常に戻りつつありますが、油断しないで新型コロナ感染対策にご留意ください。
さて春季研究会を次の内容で行います。2019 年秋季研究会以来の秋田市での実施とな
ります。新型コロナ感染対策にご留意のうえ、多数ご参加ください。


◇日時:5月27日(土)10:00~16:00
◇会場:秋田県生涯学習センター5階和室
秋田市山王中島町1-1 ☎ 018-865-1171
◇総会・研究会日程
10:00 ~ 12:00 総会・情報交換
12:00 ~ 13:00 昼食
13:00 ~ 14:00 報告① 高橋務(秋田近代史研究会)
秋田県の『青年訓練所充当実業補習学校』について」
概要
第一次世界大戦を通じてドイツの青年教育の先進性を認識したイギリスや西欧諸
国は、義務教育を終えた者にさらに継続的に教育し、公民教育、職業準備教育を並
行して行う実業補習教育に力を入れる教育改革に乗り出した。日本も同じ方針で大
正期には格段に実業補習学校の学校数・生徒数は増えた。国の法改正を受けて秋田
県でも大正9年、同11 年には施設要項を作成して制度的な内容整備をはかった。多
くは小学校附設の実業補習学校であった。しかし大正15 年青年訓練所が同様に小学
校に設置されると、青年を対象とした性格の違う二校が小学校に併設されることに
なり、町村や教員の諸負担は増大した。この両校を統合して「実業補習学校」とし
て経営する「充当」という方法が昭和4年に規定されたこともあり、この種の「実
業補習学校」が県内各地に出てきた。この青年訓練所機能をもつ「実業補習学校」
の地域的特徴や充当の在り方、課題を具体的に紹介したい。

14:00 ~ 14:20 質疑応答

14:30 ~ 15:30 報告② 山本祐麻(筑波大学大学院)
「第一次企業勃興期における田口卯吉の実業活動と経済思想
-花岡鉱業会社創立事業を中心に-」


概要
第一次企業勃興期(1886 ― 1889)にかけて、『東京経済雑誌』主宰者の田口卯吉
(1855 ― 1905)は、秋田県北秋田郡鹿角郡を含む北鹿地域において、花岡鉱業会
社を創立したメンバーの一人であった。本報告では、同事業における田口と地方名
望家・産業資本家たちの協働の実態を解明することに重点を置き、彼の経済思想を
総体的に解明する糸口をつかみたい。
明治19 年(1886)、採掘権をめぐり仙北郡の大地主の池田家と、小坂鉱山を経営
する藤田組、そして元士族で同地域の地方名望家である横山勇喜(1852 - 1897)・
古内忠治(生没年不詳)の間で三つ巴の競合がみられた。花岡村戸長(青柳東三郎)
は、産業資本家への転身を模索していた地元士族たちのため、横山・古内による経
営に期待した。そこで両者は、資金調達や設備計画の作成において田口の協力を仰
いだ。その結果、同21 年、田口と横山・古内たちは採掘権の獲得と花岡鉱業会社創
立に至ったのである。
同事業への参画を通じて田口は、地域社会の課題をふまえ、より実践的なイギリ
ス・マンチェスター学派の思想に基づく地域経済発展論を唱導した。具体的には、
政商資本や大地主、その背景にあった農商務省に頼らない自立的な生産-輸送-貿
易が、地方名望家たちの手によって実現可能であると主張したのだ。


15:30 ~ 15:50 質疑応答16:00 閉会行事