秋田近代史研究会

秋田県の近現代史を考える歴史研究団体です。

2023年秋季研究会終わる

報告者の髙村恵美氏

11 月4日(土)秋田県生涯学習センターにおいて秋季研究会が開催された。当日は、東
京からの堤洋子さんや発表者を含めて7名の参加であった。
最初情報交換が行われ、多くの話題が出た。


1つだけあげると『神無き月十番目の夜』という小説が紹介された。紹介した会員によると常陸佐竹氏に関係する報告を聞くのであれば是非読むべきであると、職場の同僚が紹介してくれたとのこと。


報告は常陸大宮市教育委員会の髙村恵美氏による「常陸佐竹氏の記憶と水戸領民」であった。
佐竹氏は平安後期以来の歴史を持ち、常陸国北部・鹿行地域・奥州南部の 55 万石に及
ぶ広大な地域を支配。しかし関ケ原の戦い後、慶長7(1602)年出羽秋田 21 万石に減封。
そのため多くの佐竹家臣団が農民となり土着、水戸藩領民となった。水戸藩ではこのよ
うな由緒を持つ農民を地域指導層として支配機構に組み入れ、村社会の秩序維持をはか
ろうとした。しかし土着した佐竹旧臣は新たな支配権力に従いながらも、家の歴史を裏
打ちする旧主佐竹氏との由緒(つながり)を求めたという。
旧主との由緒を考えるうえで重要なものに、水戸領民の旧家に残る「官禄証」がある。
「官禄証」は主君から戦功により与えられる官途状を模してある。鎌倉から戦国時代の
佐竹家臣であった先祖の武功を示すものが多いが、後世の創作と考えられる。常陸大宮
市内にはこの「官禄証」と記述が合う系図を対で所持している旧家が複数確認できるという。
個人の由緒意識が地域結合として現れたのが、小場義実の墓の改葬をめぐる争いであった。小場義実は佐竹氏の内紛である部垂の乱で天文9(1540)年に自害する。その墓を 200 年後になって部垂氏の旧領部垂村から、小場氏の旧領小場村常秀寺に移そうとす
る動きがおきた。移そうとする常秀寺僧侶とこれを阻止しようとする部垂村役人(部垂
氏旧臣の子孫)の争いに発展した。
部垂の乱は、佐竹 16 代義篤と弟の部垂義元の 12 年もの内紛だった。天文9年義篤の
部垂城攻撃により部垂義元と子は死に、偶然部垂城に居合わせた(一説には加勢のため参戦した)小場義実も自害した。この結果部垂氏は断絶、一方小場氏は存続する(小場氏は佐竹 10 代義篤の子義躬が常陸国小場に住したことから始まる。移封に伴い秋田に入り、最終的に大館城代となる。後に佐竹姓を許され佐竹西家を称し、御苗字衆として一門の中でも重きをなす)。敗れた部垂義元父子、小場義実の3人の遺骨は部垂氏旧臣が埋葬し、部垂城跡にある墓所を管理してきたという。
残された訴訟書類によると、小場村への改葬を企図した同村常秀寺僧大車とこれを阻
止しようとした部垂村庄屋立原伝重(義元宿老の子孫で墓所の管理者)が争いの当事者
であった。争いは寛保元(1741)年 10 月大車が佐竹西家当主義村に宛てた書状から始ま
った。「部垂城跡にある小場義実の墓がさびれ、管理する者もないので小場村に改葬したい」という内容であった。翌年2月には佐竹西家家臣から大車に、「小場村へ改葬することに支障ない。墓の移転料として金5両遣わす」との返信が来る。
これに対して部垂村庄屋立原伝重は「部垂義元の宿老が他家の小場義実を自らの主同
然に取り計らい、3人の葬送・建碑を行ったものである。墓域から義実の遺骨だけを選
び出すことは不可能であり、改葬も石碑を遣わすこともできない」と訴えている(寛保
4(1744)年2月カ)。さらに立原は延享元(1744)年3月郡奉行に、「35,6 年前に佐
竹西家家臣二人が小場へ来た際、部垂にも来て墓参をした。その時両人より断絶しない
ようにと頼まれた。そのため今も墳墓を維持している」と主張した(実際の佐竹西家家
臣の訪問は 29 年前の正徳5(1715)年6月(『常陸御用日記』))。
改葬をめぐる争いで、大車は佐竹西家や水戸藩寺社奉行所と連携し、墳墓の適正な管
理のためとして改葬計画を進める。さらに部垂の乱と小場義実との関わりは偶然の参戦
であり、本人の意思で加勢したわけではないと主張した。この主張には反乱者である部
垂父子との合葬を否定することで、佐竹本家への小場氏(佐竹西家)の忠義心を示すね
らいがあったのではないかと考えられる。また大車の背後には、土着した小場氏旧臣の
支援があったことも想定できる。一方改葬に抵抗する部垂村庄屋立原伝重は、部垂氏旧
臣が3人の墳墓を作り代々維持に尽力してきたのは、主君であった義元への忠義心と加
勢してくれた義実への厚恩からであると主張した。
以上から改葬をめぐる争いは、部垂氏と小場氏各旧臣の由緒の正当性をめぐる争いで
もあったということができる。なお延享2(1745)年改葬が実施され、小場義実の墓は
小場村常秀寺境内に移されたという。
報告を聞いて、常陸に土着した佐竹旧臣が偽文書とも考えられる「官禄証」や系図
調製し受け継いでいることや小場義実死去から 200 年後の改葬をめぐる争いと佐竹西家
のかかわり、正徳5年佐竹西家家臣の常陸来訪の際に多くの旧臣が接触を求めてきたことなどを考えると、従来の秋田藩研究で見過ごされていた分野があったのではないかと
思う。秋田藩側から常陸に残された佐竹旧臣との関係を解明していく必要を感じた。
また 2022 年秋季研究会で清水翔太郎氏により、「佐竹義和『名君』像が明治末年以降
の旧藩士による顕彰活動で作られた」という報告(「近代における秋田藩主佐竹義和の顕
彰と旧藩士」)があった。旧臣がかつての主君との関係をどのように認識し位置づけるか
(由緒づけるか)という点で、清水報告と今回の髙村報告は関連があると感じた。
現在でも茨城県、特に常陸大宮市などの県北部では「佐竹氏」は鉄板ネタであり、関
係する講演会は絶対に人がはいるとの話であった。髙村氏には親族の急病にもかかわら
ず都合をつけて来県してくれたことに感謝するとともに、近世秋田と常陸の関係を気付
かせてくれたことを有難く思う。
午後からは「秋田藩における常陸へのまなざしと記憶」のテーマで出席者による座談
会が行われた。過去に横手郷土史研究会や常陸佐竹研究会などの歴史研究団体が相互に
関係地を訪問して探訪・調査が行われたこと、横手城下に移住した茂木百騎の現状、秋
田藩の元禄修史事業での常陸調査内容、秋田藩の飛び地下野国薬師寺村の情報収集拠点
としての役割など話題は多岐に及んだ。