秋田近代史研究会

秋田県の近現代史を考える歴史研究団体です。

2023/総会・春季研究会終わる

春季研究会で挨拶する高橋代表委員

5月 27 日(土)秋田県生涯学習センターにおいて 10 時から総会、13 時から春季研究会が開催され、9名の会員が出席しました。高橋務代表委員を議長として 2022 年度事業報告・決算報告・監査報告、2023 年度事業計画・予算案、名誉会員、役員改正等が話し合われ、決算・予算案等承認されました。名誉会員については 90 歳以上で、今まで会の活動に参加してきた等からある人物が提案されました。また役員改選では別記のように提案され、承認されました。
質疑の中で県南中心の事業や対外発信の強化、郡役所勉強会の名称について等の意見が出されました。その他では山下太郎地域文化奨励賞応募の説明がありました。
総会後の情報交換では、柴田知彰氏から県公文書館開館30周年記念の各種事業説明がありました。また菊池保男氏から北羽新報連載中の「能代山本の先人たち」についての紹介と佐竹南家日記の解読・普及活動からみた県北と県南の文化性の違いについての指摘がありました。高本明博氏から来春、横手駅前の複合施設内に置かれる新横手図書館についての説明がありました。筑波大学大学院生の山本祐麻(ゆうま)氏から自己紹介がありました(会報 186 号にも新入会員として掲載しています)。

 

報告者の高橋務氏

13 時からの春季研究会最初の報告は高橋務氏の「秋田の『青年訓練所充当実業補習学校』について」でした。第一次世界大戦をきっかけに国民教育が総力戦対応の鍵であるとして、大戦後世界的に始まる実業補習教育の動向から説明しました。
日本では大正 10 年に、小学校卒業後「職業ニ従事スルモノニ対シ職業ニ関スル知識技能ヲ授」けるために、4~5年間かけて職業準備教育を行う機関として実業補習学校が小学校に付設されることになる。一方大正 14 年の宇垣軍縮のもと中等学校以上に対して配属将校制度が定められると、翌大正 15 年には陸軍省と文部省の協力で中等学校に進学しない勤労男子青少年に対して教練を教える機関として青年訓練所が設置され、県内でもほとんどの市町村に置かれる(同年郡長、郡役所の廃止)。内容は「訓練時数ハ四年ヲ通シテ修身及公民百時、教練四百時、普通学科二百時、職業科百時」であったという。(卒業生には陸軍の場合在営期間短縮の特典があった)。これにより小学校を卒業した勤労男子青少年は実業補習学校と青年訓練所の二つに在籍することになる。実業補習学校は文部省実業学務局が、青年訓練所は普通学務局が管轄したが、昭和4年社会教育局の成立とともに両者は同局青年教育課が管轄することになる。両者とも小学校に併設され、小学校教員が教官・指導員を兼務した(青年訓練所の場合はさらに在郷軍人も指導員)。そのため市町村は実業補習学校と青年訓練所の二重設置にともなう負担に苦しむことになるという。
そのため負担解消をめざす意味もあり、昭和4年から実業補習学校に青年訓練所を統合(充当)する「青年訓練所充当実業補習学校」が県の認可で成立する。青年訓練所的機能を持つ実業補習学校の成立ということになる(昭和 10 年には実業補習学校と青年訓練所を合体して青年学校となる)。昭和8年日本青年館で行われた実業補習教育の記念式典では県内から石沢・平沢・西目・金足東の4実業補習学校と石沢農業補習学校長猪股
徳円、峰吉川村長進藤作左衛門、秋田県視学佐々木良助ら6名の人物が表彰されている。
今後これらの表彰された学校と人物を調査することで青年訓練所充当実業補習学校の実態をあきらかにしたい。
報告後の質疑では由利郡石沢村の猪股徳円についての情報提供や充当実業補習学校に関する県の調査に対して町村の理解がブレているのは郡役所廃止の余波ではないか、文部省や陸軍の理念は町村において貫徹されたのか等の指摘がありました。

 

報告者の山本祐麻氏

次の報告は山本祐麻氏の「第一次企業勃興期における田口卯吉の実業活動と経済思想―花岡鉱業会社創立事業を中心に―」でした。
田口卯吉は明治期の経済学者・歴史学者として知られるが、「東京経済雑誌」を創刊し自由主義経済論の立場から保護貿易論や政府の経済政策を批判、両毛鉄道会社社長をつとめるなど実業界でも活躍した学者の枠を超えた経済人である。
田口は第一次企業勃興期(明治 19 ~ 23 年)に両毛鉄道会社と秋田県北鹿の花岡鉱業会社創立の実業活動を展開している。今報告は花岡鉱業会社創立における田口と地元の地方名望家との双方向的な影響関係(協働関係)を明らかにするものであった。
花岡鉱山の採掘権をめぐっては仙北郡の大地主池田家、小坂鉱山を経営する藤田組、地元士族で名望家の横山勇喜・古内忠治の三つ巴の競合があった。池田家と藤田組に対抗するため横山・古内は田口を頼る。当時の鉱山業を「山師」の仕事であると批判していた田口は、花岡鉱山をめぐる競合に参加することで自身が掲げる「新事業」論を実践しつつ、北鹿地域における鉱業を「堅実」なる事業へ導こうとしたのである。田口は東京の資金調達や政治家との交渉、定款・予算案の作成を担当する。結果明治 21 年には花岡鉱業会社が設立され、田口が社長に就任する。
この過程で田口は地価金1万円以上の財産を持つ地方名望家が西洋の技術を学んで政商から自立的に事業経営すれば「山師」から脱し、産業資本家に転身できると説いた。
農商務省や政商資本から自立する田口の経営論の影響を受けた横山は、当初予定した藤田組製錬炉使用ではなく自前の製錬所を建設した。さらに地方自治の精神のもと補助金に頼らないインフラ整備の考え方で、県会で北鹿地域鉱業のさらなる発展のための道路整備論を展開するが否決されてしまう。
農商務省の前田正名や和田維四郎による法整備の結果、鉱業では政商資本の「金力世界」がより強化され、地方名望家を中心とした鉱業は難しくなっていく。この後田口は
貿易に期待するようになり、「海軍増強」論を唱え、対外硬派の一翼を担うことになるという。
報告後の質疑では秋木の創業者井坂直幹と田口の類似性や伝記研究では花岡鉱業会社創立事業に触れられていない理由について等の指摘がありました。

 

(荒川肇)