秋田近代史研究会

秋田県の近現代史を考える歴史研究団体です。

2022/秋季研究会終わる

報告者の柴田氏

11 月26 日大仙市はなび・アムにおいて秋季研究会が開催されました。当日は発表者
3名を含めて9名(内会員以外の方2名)の参加でした。
最初の報告は柴田知彰副代表委員による「小坂鉱山煙害問題をめぐる郡制期の地方自
治―郡役所文書群の構造分析、郡会議事録の分析等より―」でした。
明治末から大正期に鹿角郡北秋田郡で大問題となった小坂鉱山煙害問題について
郡役所文書と郡会議事録を分析し、郡役所と郡会の対立・連携を明らかにしました。
これにより県会・郡会議員に代表される地方自治と県知事・郡長の進める地方統治
(支配)の関係解明に取り組んだものでした。ただし大正15 年の郡役所廃止後、郡
役所文書は県庁への移管時の廃棄・散逸が多いという。北秋田郡は昭和初期に3,000
冊余りの簿冊を整理した昭和6年「元北秋田郡役所簿冊目録」は存在するが、名簿記載された簿冊は殆ど散逸して煙害問題に関する簿冊は1冊も残っていないとのこと(当該時期の郡会議事録は残存)。また煙害問題発生地である鹿角郡では、鉱煙害賠償交渉の経過を記録している大正5年「鉱煙害関係事務簿」機密が1冊存在しているのみという。
以上の史料的制約の下で北秋田郡役所「簿冊目録」を構造分析。煙害問題関係簿冊名
を抽出し、当該簿冊作成の背景を郡会議事録から解明している。その中で判明したこと
北秋田郡会議員泉清(釈迦内村、後県議会議員)らの煙害問題をめぐる活発な活動で
した。郡長への煙害調査建議や県知事・内務大臣への郡会意見書提出、上京しての貴衆
両院への請願や政党を問わず有力代議士への働きかけなど精力的に活動している。これ
らの活動からは明治40 年代までに成長した地方自治の力が反映されているという。
一方鹿角郡役所の大正5年「鉱煙害関係事務簿」機密の分析を通じて、煙害賠償交渉をめぐる郡役所と郡会、地主層の内実を分析。その中で判明したことは第一次大戦勃発
による銅(薬きょうの原料)の生産増大という国策のもと煙害が激甚化する中、小坂鉱
山経営の藤田組と地主・小作人の期成同盟会間の賠償契約更改問題をめぐる動きである。
藤田組の同盟会切り崩し工作や郡会の対応、町村の内情について郡長は県知事へ藤田組
を擁護する立場から「秘」・親展で逐一報告しているという。
以上を地方自治と地方統治の視点でみると、郡会(地方自治)は意見書というルート
で県・国の官公庁(地方統治)に働きかけを行い、一定の効果をあげていること。煙害
問題のように地方自治と地方統治が対立する場合、郡長は統治体制側の官僚として動い
ていること。地方自治は地主中心の自治であって小農や小作人の利害とは必ずしも一致
しないなどが指摘できるとした。
発表前半は最も体系的に残る雄勝郡役所文書群をモデルとして構造分析を行い、文書
シリーズ(鉱業や煙害対策など機能ごとに分類したグループ)の変化から時期ごとの地
自治の構造変化を明らかにしている。これについては時間の関係から簡単に触れたの
みであったが、雄勝郡役所文書群を一般化することで、他の郡役所文書群の廃棄や散逸
で欠落した文書が何であったかの類推が可能となり、重要な内容であると感じた。詳し
くは秋田近代史研究61 号に掲載されている同名の論文を参照されたい。
この報告は柴田氏の30 年間に及ぶ公文書館勤務の集大成の一部と聞いています。秋田
近代史の未開分野に果敢にチャレンジしている同氏の集大成の完成に期待しています。

報告者の水谷氏

第2報告は水谷悟(静岡文化芸術大学)氏による「大正期の雑誌メディアと秋田県
の読者~『中央公論』『第三帝国』『種蒔く人』を事例に」でした。
大正デモクラシー」期の政治と社会について、政党政治の成立と民衆運動の展
開に雑誌メディアがどのようにかかわったのか。また民衆へのデモクラシーの浸
透はどうであったのかを、「大正デモクラシー」期の思想・運動を牽引し、かつ秋
田県出身の言論人が深く関わった『中央公論』、『第三帝国』、『種蒔く人』を対象
に分析したものである。
滝田樗陰(秋田市手形新町出身、叔父町田忠治)が編集長として辣腕を振るったのが『中央公論』である。滝田編集長の時代(1912 ~ 25)は当初、反政友会勢力の結集をめざす高名な政治家の寄稿を多数掲載するなどして政局に一つの動きを作り出したという。また町田忠治が1912 年の総選挙で衆議院議員に初当選(立憲国民党)しているが、町田の政治的な動きと滝田編集長の『中央公論』の論調には親和性があるとしている。
第一次世界大戦期には吉野作造などの学者や評論家を登用、「民本主義」の提唱など普
通選挙による政党政治の実現をめざす論陣を張っている。その後はロシア革命をうけて
吉野作造の「社会主義」や「国際協調主義」への理解と接近を示す論文が寄せられてい
る。同誌は執筆者を見てもわかるように「一流大家主義」を標榜し、知識人やエリート層を読者とする総合雑誌といえる。しかし読者からの投書は皆無であるという。
石田友治(望天、土崎出身、元横手教会牧師、元秋田魁新報記者)は『第三帝国』(茅原華山率いる益進会同人が発行)の編集主任(1913 ~ 1915)であった。同誌は営業税全廃運動や普選請願署名運動のキャンペーンなどの政治運動もするが、茅原が「無名新人の技倆手腕を紹介する機関」と述べたように、読者が意見を公表する場である投書・通信欄の充実が特徴であったという。
投書は全国各地から寄せられているが、石田の存在のせいか特に秋田からの投書が群
を抜いて多いという。投書が連鎖を呼び、双方向的な意見交流の場となっているが、県
内では島田豊三郎や若松太平洞、村田光烈、畠山花城、金子洋文らが投書しているとい
う。また全国33 ヵ所の益進会支部があり、県内は横手・北浦・能代の3か所にあったと
いう。県内3支部の調査の結果、メンバーは20 ~ 30 歳代の地元商店の若旦那や牧師、
小学校教員などで、これは旧制中学校卒の地域の知識階層であるという。投書の充実や
各地の支部活動、益進会東北講演旅行などで読者の結集強化を図ったという。
第三帝国』の愛読者でもある金子洋文や仏で反戦平和と共同戦線の思想を体験した
小牧近江らを中心に1921 年『種蒔く人』が創刊。土崎版・東京版あわせて250 通にも及
ぶ投書が掲載されたという。実名不明の投書が多いが、秋田からは浅野吉十郎(職工組
合書記長)や天川佐吉郎(小作人)、磯川潤子(婦人運動家)らの投書が掲載された。
秋田は「大正デモクラシー」期における政治・言論・思想の震源地の一つであったと
いう。今後、雑誌メディアの政治思想運動や文化運動を秋田の読者がどのように受容・
変容したかという視点から歴史像を再構築する必要があるという。その場合投書欄は雑
誌の今日の「読者」が明日の「論者」に変わっていく可能性を持った双方向的な言論空
間であり、この分析が重要であるとした。また民本主義を説く吉野作造の論文が『中央
公論』に掲載され「大正デモクラシー」の理論とされたことはよく知られている。しか
しこの論文は長文難解であり、どれだけの国民が理解しただろうかとの指摘もあった。
水谷氏には既に秋田県内の益進会支部の分析も織り込んだ『雑誌『第三帝国』の思想
運動茅原崋山と大正地方青年』(2015 年、ぺりかん社)がありますが、今後本報告の
内容も本にまとめることと思います。大いに期待しています。多くの史料を準備してく
れたのに報告時間が足りなかったことを運営担当として申し訳なく思っています。

報告者の清水氏

午後からの第3報告は清水翔太郎氏(秋田大学)による「近代における秋田藩主佐竹
義和の顕彰と旧藩士」でした。
佐竹義和は江戸時代中期の藩政改革を主導した熊本細川重賢、米沢上杉治憲とならぶ
「名君」とされている。しかし細川、上杉とは異なり義和の「名君」像は近世には無く、明治末年以降の旧藩士による顕彰活動により「名君」像がつくられたというのである。
近世の佐竹義和関連資料の分析から、義和期は学館創設や職制改革の点では画期であ
り、その記録を後世の参考にするための史料編纂(『御亀鑑』)が没後行われる。また本人著作の巡検記録から義和=「仁君」像が家中で共有されはする。しかし義和の特定の事績を顕彰する動きは見られないという。
それが明治42 年、秋田市長であった大久保鉄作(旧藩士、秋田日報主幹、県会議員、衆議院議員の経歴、明治39 年~大正5 年秋田市長)が伊藤博文に義和筆の山水画と略歴を贈り、義和の功績を明治天皇が知ることがきっかけで義和顕彰活動が始まるという。大久保は伊藤から義和の事績をまとめることを勧められ、大正3年秋田の新聞に「天樹院公逸事」として55 回にわたって連載する。そしてこの連載を修正・加筆して大正5年『天樹院佐竹義和公』を刊行する。『義和公』の中で戊辰戦争後勤王の功績が報
いられなかった理由を義和没後その遺志を継ぐ人物がおらず人材養成が及ばなかった点
に求めている。刊行の意図は義和の遺志を共有し教育や産業の振興を図ることで、本県
の飛躍、帝国の発展に寄与することとしている。こうして郷土愛、愛国心の涵養に結び
つけて、教育・産業の振興を図った「中興の名君」義和像が確立したというのである。
大正4年に大正天皇即位大礼で贈位内申(内申書事績は『義和公』を簡略化したもの。
『義和公』執筆と並行して作成されたか)が行われたが贈位はなく、3年後の大正7年
陸軍特別大演習(栃木県・茨城県)で従三位が追贈されることになる。
従三位追贈後、義和顕彰運動は大きな広がりを見せる。天樹院公頌徳集編纂会が秋田
市長・衆議院議員・新聞人・漢学者などの県内有力者を中心に豪農商の賛助を得て結成
され、大正10 年には『佐竹義和公頌徳集全』が刊行される。刊行の経緯は「中興の名君」義和への従三位追贈を機に、事績を旧藩士及び領民で共有し後世に伝えるために編纂会を結成。義和を讃える「頌徳詩歌」を募集し、伝記を加えて刊行したという。こうして顕彰は一部旧藩士の枠を超えて秋田県民全体へ広がっていったという。
今後の課題として、旧藩士による歴史叙述と史料収集の視点から秋田史談会(明治42
年創設、構成員は天樹院公頌徳集編纂会と重なる)の活動を解明したいとの事であった。
私はかつて日本史授業の際、寛政期諸藩の改革は細川重賢・上杉治憲・佐竹義和の3
人の「名君」がそれぞれ藩政を主導。藩校を設立して有能な人材を登用し、殖産興業政
策や専売制により改革を進めたと教えるのが常であった。義和を在世中からの「名君」
として、「義和=名君」像は私にとって自明のことであった。その「名君」像が明治末年以降の旧藩士による顕彰活動で作られたという説は衝撃であった。研究会の直前、たまたま読んだ歴史評論2022 年11 月号に「今という時代をつくるために過去を操作する」(マイケル・カメン)という言葉が記されていた。この言葉を敷衍すると、旧藩士にとっては過去の義和を「名君」と操作することで、現に旧藩士が生きていた明治末から大正の時代の秋田をどのようにつくりたかったのだろうかと考えてしまう。地方改良運動との関係や近代における近世像創出のあり方を考える点からも、今後の分析に大いに興味が持たれる。