秋田近代史研究会

秋田県の近現代史を考える歴史研究団体です。

2023年秋季研究会終わる

報告者の髙村恵美氏

11 月4日(土)秋田県生涯学習センターにおいて秋季研究会が開催された。当日は、東
京からの堤洋子さんや発表者を含めて7名の参加であった。
最初情報交換が行われ、多くの話題が出た。


1つだけあげると『神無き月十番目の夜』という小説が紹介された。紹介した会員によると常陸佐竹氏に関係する報告を聞くのであれば是非読むべきであると、職場の同僚が紹介してくれたとのこと。


報告は常陸大宮市教育委員会の髙村恵美氏による「常陸佐竹氏の記憶と水戸領民」であった。
佐竹氏は平安後期以来の歴史を持ち、常陸国北部・鹿行地域・奥州南部の 55 万石に及
ぶ広大な地域を支配。しかし関ケ原の戦い後、慶長7(1602)年出羽秋田 21 万石に減封。
そのため多くの佐竹家臣団が農民となり土着、水戸藩領民となった。水戸藩ではこのよ
うな由緒を持つ農民を地域指導層として支配機構に組み入れ、村社会の秩序維持をはか
ろうとした。しかし土着した佐竹旧臣は新たな支配権力に従いながらも、家の歴史を裏
打ちする旧主佐竹氏との由緒(つながり)を求めたという。
旧主との由緒を考えるうえで重要なものに、水戸領民の旧家に残る「官禄証」がある。
「官禄証」は主君から戦功により与えられる官途状を模してある。鎌倉から戦国時代の
佐竹家臣であった先祖の武功を示すものが多いが、後世の創作と考えられる。常陸大宮
市内にはこの「官禄証」と記述が合う系図を対で所持している旧家が複数確認できるという。
個人の由緒意識が地域結合として現れたのが、小場義実の墓の改葬をめぐる争いであった。小場義実は佐竹氏の内紛である部垂の乱で天文9(1540)年に自害する。その墓を 200 年後になって部垂氏の旧領部垂村から、小場氏の旧領小場村常秀寺に移そうとす
る動きがおきた。移そうとする常秀寺僧侶とこれを阻止しようとする部垂村役人(部垂
氏旧臣の子孫)の争いに発展した。
部垂の乱は、佐竹 16 代義篤と弟の部垂義元の 12 年もの内紛だった。天文9年義篤の
部垂城攻撃により部垂義元と子は死に、偶然部垂城に居合わせた(一説には加勢のため参戦した)小場義実も自害した。この結果部垂氏は断絶、一方小場氏は存続する(小場氏は佐竹 10 代義篤の子義躬が常陸国小場に住したことから始まる。移封に伴い秋田に入り、最終的に大館城代となる。後に佐竹姓を許され佐竹西家を称し、御苗字衆として一門の中でも重きをなす)。敗れた部垂義元父子、小場義実の3人の遺骨は部垂氏旧臣が埋葬し、部垂城跡にある墓所を管理してきたという。
残された訴訟書類によると、小場村への改葬を企図した同村常秀寺僧大車とこれを阻
止しようとした部垂村庄屋立原伝重(義元宿老の子孫で墓所の管理者)が争いの当事者
であった。争いは寛保元(1741)年 10 月大車が佐竹西家当主義村に宛てた書状から始ま
った。「部垂城跡にある小場義実の墓がさびれ、管理する者もないので小場村に改葬したい」という内容であった。翌年2月には佐竹西家家臣から大車に、「小場村へ改葬することに支障ない。墓の移転料として金5両遣わす」との返信が来る。
これに対して部垂村庄屋立原伝重は「部垂義元の宿老が他家の小場義実を自らの主同
然に取り計らい、3人の葬送・建碑を行ったものである。墓域から義実の遺骨だけを選
び出すことは不可能であり、改葬も石碑を遣わすこともできない」と訴えている(寛保
4(1744)年2月カ)。さらに立原は延享元(1744)年3月郡奉行に、「35,6 年前に佐
竹西家家臣二人が小場へ来た際、部垂にも来て墓参をした。その時両人より断絶しない
ようにと頼まれた。そのため今も墳墓を維持している」と主張した(実際の佐竹西家家
臣の訪問は 29 年前の正徳5(1715)年6月(『常陸御用日記』))。
改葬をめぐる争いで、大車は佐竹西家や水戸藩寺社奉行所と連携し、墳墓の適正な管
理のためとして改葬計画を進める。さらに部垂の乱と小場義実との関わりは偶然の参戦
であり、本人の意思で加勢したわけではないと主張した。この主張には反乱者である部
垂父子との合葬を否定することで、佐竹本家への小場氏(佐竹西家)の忠義心を示すね
らいがあったのではないかと考えられる。また大車の背後には、土着した小場氏旧臣の
支援があったことも想定できる。一方改葬に抵抗する部垂村庄屋立原伝重は、部垂氏旧
臣が3人の墳墓を作り代々維持に尽力してきたのは、主君であった義元への忠義心と加
勢してくれた義実への厚恩からであると主張した。
以上から改葬をめぐる争いは、部垂氏と小場氏各旧臣の由緒の正当性をめぐる争いで
もあったということができる。なお延享2(1745)年改葬が実施され、小場義実の墓は
小場村常秀寺境内に移されたという。
報告を聞いて、常陸に土着した佐竹旧臣が偽文書とも考えられる「官禄証」や系図
調製し受け継いでいることや小場義実死去から 200 年後の改葬をめぐる争いと佐竹西家
のかかわり、正徳5年佐竹西家家臣の常陸来訪の際に多くの旧臣が接触を求めてきたことなどを考えると、従来の秋田藩研究で見過ごされていた分野があったのではないかと
思う。秋田藩側から常陸に残された佐竹旧臣との関係を解明していく必要を感じた。
また 2022 年秋季研究会で清水翔太郎氏により、「佐竹義和『名君』像が明治末年以降
の旧藩士による顕彰活動で作られた」という報告(「近代における秋田藩主佐竹義和の顕
彰と旧藩士」)があった。旧臣がかつての主君との関係をどのように認識し位置づけるか
(由緒づけるか)という点で、清水報告と今回の髙村報告は関連があると感じた。
現在でも茨城県、特に常陸大宮市などの県北部では「佐竹氏」は鉄板ネタであり、関
係する講演会は絶対に人がはいるとの話であった。髙村氏には親族の急病にもかかわら
ず都合をつけて来県してくれたことに感謝するとともに、近世秋田と常陸の関係を気付
かせてくれたことを有難く思う。
午後からは「秋田藩における常陸へのまなざしと記憶」のテーマで出席者による座談
会が行われた。過去に横手郷土史研究会や常陸佐竹研究会などの歴史研究団体が相互に
関係地を訪問して探訪・調査が行われたこと、横手城下に移住した茂木百騎の現状、秋
田藩の元禄修史事業での常陸調査内容、秋田藩の飛び地下野国薬師寺村の情報収集拠点
としての役割など話題は多岐に及んだ。

2023/秋季研究会のお知らせ

永遠に続くように思われた猛暑もやはり終わり、秋が深まる季節となりました。さて
秋季研究会を次の内容で行います。春季研究会に引き続き秋田市での実施となっていま
す。新型コロナ感染対策にご留意のうえ、多数ご参加ください。
◇日 時:11月4日(土) 10:00~14:30
◇会 場:秋田県生涯学習センター 5階 第3研修室
秋田市山王中島町 1-1 ☎ 018-865-1171

◇研究会日程
10:00 ~ 10:30 開会、近況報告・情報交換
10:30 ~ 11:30 報告 髙村恵美(常陸大宮市教育委員会)
常陸佐竹氏の記憶と水戸領民」

概要
平安時代後期以来、常陸国を所領としていた佐竹氏は、関ヶ原合戦の後に羽州
田に転封となった。大幅な減封により、家臣団の多くが土着した常陸国では近世水
戸藩社会においても、旧主である佐竹一族との由緒を希求する人々が多く見られた。
水戸藩は藩政初期から、佐竹氏とのゆかりをもつ百姓を村役人等の地域指導層とし
て支配機構に組み入れ、村社会の秩序維持を図ろうとする。新たな支配権力に従い
ながらも家の歴史を裏打ちする旧主とのつながりを求めた水戸領民と地域の実相を
検討する。
11:30 ~ 12:00 質疑応答
12:00 ~ 13:00 昼食
13:00 ~ 14:30 座談会

テーマ「秋田藩における常陸へのまなざしと記憶」

概要
横手城下に移住した精鋭軍団茂木百騎、秋田藩家蔵文書で中世常陸とつながる元
禄の修史事業、下野国薬師寺村にあった秋田藩飛地の役割などの話題提供を通じて
髙村報告とあわせ近世秋田と常陸の関係について明らかにしたい。

 

第 53 回空襲・戦災を記録する会 秋田大会

『第 53 回空襲・戦災を記録する会秋田大会~秋田から考える戦争最末期空襲』
- 日本本土に対する「最後の空襲」の実相 -

2023年8月25日(金)~27日(日)

オプショナルイベント同時開催(8/27~28)

空襲・戦災を記録する会は、第53 回全国大会を秋田市にて開催いたします。
本大会は、故・早乙女勝元氏らと各地の市民の手によって、空襲・戦災を記録し、実相を体験者の証言や米軍資料に求め、市民に語り伝える
取り組みが全国に広がったことを受けて、1970 年に交流の場として第1 回・東京大会を開催したことに始まりました。
23 年目の第53 回大会では、久しぶりに東北地方・秋田で開催します。
秋田市北西部の土崎地区は、1945 年 8 月 14 日夜半から 15 日の未明にかけて空襲を受け、大きな損害を被りました。
この空襲は、戦争末期に行われた「石油作戦」のひとつとして旧日本石油秋田製油所を標的としたもので、アメリカ軍は日本の降伏時に全国で
行った一連の「フィナーレ(幕切れ)爆撃」として位置づけています。これは、8 月15 日未明の悲劇として語り継がれてきた、熊谷、伊勢崎、
大阪陸軍造兵廠などを目標とした空襲のひとつでした。
今大会ではこうした戦争最末期の空襲に焦点をあてつつ、全国各地からの調査・研究の成果を持ち寄って議論を深めたいと考えています。
コロナ禍で培ったオンラインでのつながりも大切に、今大会もハイフレックス方式で開催いたします。お好みの方法でご参加ください。

 

対面方式会場(現地参加は申込先着150名様まで) 秋田大学 手形キャンパス 

〒010-0852 秋田県秋田市手形学園町1−1

オンライン方式会場 Zoom使用(参加者には後日URLを送付します)

日程概要

8月25日(金)   夕方~夜 空襲資料研究会

8月26日(土) 午前  空襲資料研究会

8月26日(土) 午後 記念講演 「地域における継承的アーカイブと学校教育での活用―秋田県を中心に―」 外池智さん(秋田大学大学院教授) 

シンポジウム 「秋田から考える戦争最末期空襲    ―日本本土に対する「最後の空襲」の実相―」

8月26日(土) 夜     懇親会を予定(※要申し込み)

8月27日(日)午前  各地の活動・自由報告

現地オプショナルイベント(土崎港被爆市民会議主催)

8月27日(日)  14時~17時半 

1.「米軍の石油作戦と土崎空襲」講師 工藤洋三さん

2.土崎空襲史跡のバス見学会8月28日(月)9時~16時(予定)           男鹿半島バスツアー(※要申し込み、有料)

※日程・プログラムについては、変更になる可能性があります。

参加方法

①対面方式で参加される方(先着150名様まで)・当日会場にお越しください。

参加費2,000 円は会場で現金にてお支払いください。カード決済・ICカード決済などはご利用いただけません。

②オンライン方式で参加される方 ・申し込み終了後、振込方法に従い、参加費の振込をお願いいたします。・登録と振込が確認できた参加者の方には、原則として開催日の3日前までに、ZOOM参加用URL・ミーティングID・パスワードをお申込みいただいたメールアドレス宛てに送付します。

参加申込み 

以下のいずれかでお申し込みください。

①現地参加の場合は、以下オンライン登録フォームに7月10日(月)までにご登録ください。(現在も受付中)②オンライン参加の方も「オンライン登録フォーム」で8月21日(月)までに登録してください。

③上記登録フォームで申し込まれない場合は、7月10日(月)までに別添「参加申込書」を郵送してください。

送付先 〒745-0121 山口県周南市須々万奥286-3 工藤洋

参加費  2,000円        

・対面、オンライン方式とも3日間共通で、学生・大学院生の方は無料です。

※土崎港被爆市民会議主催の男鹿半島ツアー(28日)については、別途料金を7月31日(月)までにお振り込みいただくことになります。振込み先は参加費お支払い方法をご覧ください。

※懇親会 4,000円(予定)現地参加の方で、懇親会[8月26日(土)]に参加される方は、7月10日(月)までにオンライン登録フォームにお申し込みの上、現地でお支払いください(現在も受付中です)。

 

 

2023/総会・春季研究会終わる

春季研究会で挨拶する高橋代表委員

5月 27 日(土)秋田県生涯学習センターにおいて 10 時から総会、13 時から春季研究会が開催され、9名の会員が出席しました。高橋務代表委員を議長として 2022 年度事業報告・決算報告・監査報告、2023 年度事業計画・予算案、名誉会員、役員改正等が話し合われ、決算・予算案等承認されました。名誉会員については 90 歳以上で、今まで会の活動に参加してきた等からある人物が提案されました。また役員改選では別記のように提案され、承認されました。
質疑の中で県南中心の事業や対外発信の強化、郡役所勉強会の名称について等の意見が出されました。その他では山下太郎地域文化奨励賞応募の説明がありました。
総会後の情報交換では、柴田知彰氏から県公文書館開館30周年記念の各種事業説明がありました。また菊池保男氏から北羽新報連載中の「能代山本の先人たち」についての紹介と佐竹南家日記の解読・普及活動からみた県北と県南の文化性の違いについての指摘がありました。高本明博氏から来春、横手駅前の複合施設内に置かれる新横手図書館についての説明がありました。筑波大学大学院生の山本祐麻(ゆうま)氏から自己紹介がありました(会報 186 号にも新入会員として掲載しています)。

 

報告者の高橋務氏

13 時からの春季研究会最初の報告は高橋務氏の「秋田の『青年訓練所充当実業補習学校』について」でした。第一次世界大戦をきっかけに国民教育が総力戦対応の鍵であるとして、大戦後世界的に始まる実業補習教育の動向から説明しました。
日本では大正 10 年に、小学校卒業後「職業ニ従事スルモノニ対シ職業ニ関スル知識技能ヲ授」けるために、4~5年間かけて職業準備教育を行う機関として実業補習学校が小学校に付設されることになる。一方大正 14 年の宇垣軍縮のもと中等学校以上に対して配属将校制度が定められると、翌大正 15 年には陸軍省と文部省の協力で中等学校に進学しない勤労男子青少年に対して教練を教える機関として青年訓練所が設置され、県内でもほとんどの市町村に置かれる(同年郡長、郡役所の廃止)。内容は「訓練時数ハ四年ヲ通シテ修身及公民百時、教練四百時、普通学科二百時、職業科百時」であったという。(卒業生には陸軍の場合在営期間短縮の特典があった)。これにより小学校を卒業した勤労男子青少年は実業補習学校と青年訓練所の二つに在籍することになる。実業補習学校は文部省実業学務局が、青年訓練所は普通学務局が管轄したが、昭和4年社会教育局の成立とともに両者は同局青年教育課が管轄することになる。両者とも小学校に併設され、小学校教員が教官・指導員を兼務した(青年訓練所の場合はさらに在郷軍人も指導員)。そのため市町村は実業補習学校と青年訓練所の二重設置にともなう負担に苦しむことになるという。
そのため負担解消をめざす意味もあり、昭和4年から実業補習学校に青年訓練所を統合(充当)する「青年訓練所充当実業補習学校」が県の認可で成立する。青年訓練所的機能を持つ実業補習学校の成立ということになる(昭和 10 年には実業補習学校と青年訓練所を合体して青年学校となる)。昭和8年日本青年館で行われた実業補習教育の記念式典では県内から石沢・平沢・西目・金足東の4実業補習学校と石沢農業補習学校長猪股
徳円、峰吉川村長進藤作左衛門、秋田県視学佐々木良助ら6名の人物が表彰されている。
今後これらの表彰された学校と人物を調査することで青年訓練所充当実業補習学校の実態をあきらかにしたい。
報告後の質疑では由利郡石沢村の猪股徳円についての情報提供や充当実業補習学校に関する県の調査に対して町村の理解がブレているのは郡役所廃止の余波ではないか、文部省や陸軍の理念は町村において貫徹されたのか等の指摘がありました。

 

報告者の山本祐麻氏

次の報告は山本祐麻氏の「第一次企業勃興期における田口卯吉の実業活動と経済思想―花岡鉱業会社創立事業を中心に―」でした。
田口卯吉は明治期の経済学者・歴史学者として知られるが、「東京経済雑誌」を創刊し自由主義経済論の立場から保護貿易論や政府の経済政策を批判、両毛鉄道会社社長をつとめるなど実業界でも活躍した学者の枠を超えた経済人である。
田口は第一次企業勃興期(明治 19 ~ 23 年)に両毛鉄道会社と秋田県北鹿の花岡鉱業会社創立の実業活動を展開している。今報告は花岡鉱業会社創立における田口と地元の地方名望家との双方向的な影響関係(協働関係)を明らかにするものであった。
花岡鉱山の採掘権をめぐっては仙北郡の大地主池田家、小坂鉱山を経営する藤田組、地元士族で名望家の横山勇喜・古内忠治の三つ巴の競合があった。池田家と藤田組に対抗するため横山・古内は田口を頼る。当時の鉱山業を「山師」の仕事であると批判していた田口は、花岡鉱山をめぐる競合に参加することで自身が掲げる「新事業」論を実践しつつ、北鹿地域における鉱業を「堅実」なる事業へ導こうとしたのである。田口は東京の資金調達や政治家との交渉、定款・予算案の作成を担当する。結果明治 21 年には花岡鉱業会社が設立され、田口が社長に就任する。
この過程で田口は地価金1万円以上の財産を持つ地方名望家が西洋の技術を学んで政商から自立的に事業経営すれば「山師」から脱し、産業資本家に転身できると説いた。
農商務省や政商資本から自立する田口の経営論の影響を受けた横山は、当初予定した藤田組製錬炉使用ではなく自前の製錬所を建設した。さらに地方自治の精神のもと補助金に頼らないインフラ整備の考え方で、県会で北鹿地域鉱業のさらなる発展のための道路整備論を展開するが否決されてしまう。
農商務省の前田正名や和田維四郎による法整備の結果、鉱業では政商資本の「金力世界」がより強化され、地方名望家を中心とした鉱業は難しくなっていく。この後田口は
貿易に期待するようになり、「海軍増強」論を唱え、対外硬派の一翼を担うことになるという。
報告後の質疑では秋木の創業者井坂直幹と田口の類似性や伝記研究では花岡鉱業会社創立事業に触れられていない理由について等の指摘がありました。

 

(荒川肇)

2023/総会・春季研究会のお知らせ

今春は異常に早く桜が満開となり、4月下旬には県内各地ほとんど葉桜となってしま
いました。これも地球温暖化の影響でしょうか。県内の新型コロナ感染者は累計で20 万
人を超え、県民4~5人に1人が感染者という状況です。ウィズコロナで日常生活が通
常に戻りつつありますが、油断しないで新型コロナ感染対策にご留意ください。
さて春季研究会を次の内容で行います。2019 年秋季研究会以来の秋田市での実施とな
ります。新型コロナ感染対策にご留意のうえ、多数ご参加ください。


◇日時:5月27日(土)10:00~16:00
◇会場:秋田県生涯学習センター5階和室
秋田市山王中島町1-1 ☎ 018-865-1171
◇総会・研究会日程
10:00 ~ 12:00 総会・情報交換
12:00 ~ 13:00 昼食
13:00 ~ 14:00 報告① 高橋務(秋田近代史研究会)
秋田県の『青年訓練所充当実業補習学校』について」
概要
第一次世界大戦を通じてドイツの青年教育の先進性を認識したイギリスや西欧諸
国は、義務教育を終えた者にさらに継続的に教育し、公民教育、職業準備教育を並
行して行う実業補習教育に力を入れる教育改革に乗り出した。日本も同じ方針で大
正期には格段に実業補習学校の学校数・生徒数は増えた。国の法改正を受けて秋田
県でも大正9年、同11 年には施設要項を作成して制度的な内容整備をはかった。多
くは小学校附設の実業補習学校であった。しかし大正15 年青年訓練所が同様に小学
校に設置されると、青年を対象とした性格の違う二校が小学校に併設されることに
なり、町村や教員の諸負担は増大した。この両校を統合して「実業補習学校」とし
て経営する「充当」という方法が昭和4年に規定されたこともあり、この種の「実
業補習学校」が県内各地に出てきた。この青年訓練所機能をもつ「実業補習学校」
の地域的特徴や充当の在り方、課題を具体的に紹介したい。

14:00 ~ 14:20 質疑応答

14:30 ~ 15:30 報告② 山本祐麻(筑波大学大学院)
「第一次企業勃興期における田口卯吉の実業活動と経済思想
-花岡鉱業会社創立事業を中心に-」


概要
第一次企業勃興期(1886 ― 1889)にかけて、『東京経済雑誌』主宰者の田口卯吉
(1855 ― 1905)は、秋田県北秋田郡鹿角郡を含む北鹿地域において、花岡鉱業会
社を創立したメンバーの一人であった。本報告では、同事業における田口と地方名
望家・産業資本家たちの協働の実態を解明することに重点を置き、彼の経済思想を
総体的に解明する糸口をつかみたい。
明治19 年(1886)、採掘権をめぐり仙北郡の大地主の池田家と、小坂鉱山を経営
する藤田組、そして元士族で同地域の地方名望家である横山勇喜(1852 - 1897)・
古内忠治(生没年不詳)の間で三つ巴の競合がみられた。花岡村戸長(青柳東三郎)
は、産業資本家への転身を模索していた地元士族たちのため、横山・古内による経
営に期待した。そこで両者は、資金調達や設備計画の作成において田口の協力を仰
いだ。その結果、同21 年、田口と横山・古内たちは採掘権の獲得と花岡鉱業会社創
立に至ったのである。
同事業への参画を通じて田口は、地域社会の課題をふまえ、より実践的なイギリ
ス・マンチェスター学派の思想に基づく地域経済発展論を唱導した。具体的には、
政商資本や大地主、その背景にあった農商務省に頼らない自立的な生産-輸送-貿
易が、地方名望家たちの手によって実現可能であると主張したのだ。


15:30 ~ 15:50 質疑応答16:00 閉会行事

歴史情報

御布達抜書

◆『明治十二年一月ヨリ 御布達抜書 羽後国仙北郡正手沢村役場戸長 堀江徳治郎』(御
布達書・小作帳01)と『大正六年至大正八年 小作帳』(御布達書・小作帳02)について

昨年 12 月、伊藤寛崇氏から大仙市アーカイブズへ上記史料2点が寄贈され、近日中に公開予定です。
『御布達抜書』は、正手沢村(後大沢郷村に合併)戸長であった堀江が県・太政官・大蔵卿・郡役所・陸軍卿から村宛に発せられた布達の抜き書きや要点をまとめたものです。期間は明治 12 年から 15 年に及んでいます。戸長としての職務遂行の必要上から作成・使用した個人的な記録と思われます。『抜書』の分析から多くの布達の中からどの布達が、また布達中のどの部分が正手澤村戸長にとって必要であったかが読み取れます。

小作帳


『小作帳』は旧大曲町の商人地主板谷五郎左衛門家のものです。板谷家は大正4年
租 1,372 円、所得税 627 円でした。1町歩当の県平均地租(3.96 円)から計算すると 350
町歩近くの農地を所有していたと思われます(『秋田名誉鑑』大正4年 11 月)。『小作帳』には大曲町をはじめ近隣町村の小作地や小作人、小作料、収納状況が記されています。水利が十分でない地域があるせいか、小作料として大豆納入が一定数あったのが意外でした。
何れも伊藤氏が Yahooo オークションでビックリするほど安価に購入したとのことです。私も試しにヤフオクのサイトに入って「秋田県 古文書」と打ち込んでみたら、秋田に関する多方面の膨大な史料がオークションに出品されていることに驚きました。価格は千円未満から数千円台がほとんどでした。貴重な史料がオークションにかかっていること、またそもそも元の所有者からどういう経路で流出してオークションにかけられるまでに至ったのかなど考えさせられました。
これからはオークションサイトからも目が離せないと思っています。

 

◆郡役所勉強会

11 月 19 日、秋季研究会1週間前で報告予定者柴田知彰氏によるプレ報告実施。情報
交換は伊藤寛崇氏から 11 月 27 日秋田テレビ放送予定の「秋田人物伝~町田忠治~」や
同氏作成の『秋田県選挙データ 2022』についての説明あり。
12 月 17 日予定の勉強会は各自所用のため都合がつかず開催せず。
1月 21 日中野良「大正期日本陸軍の軍事演習―地域社会との関係を中心に―」(『史学雑誌』第 114 編第4号、2005 年)を読み始める。情報交換では由利郡西目村長を務めた佐々木孝一郎(1888-1961)、仙北郡大沢郷村長を務めた齋藤正幸(1850-1925)について話題となる。地域指導者として活躍した人物像を歴史的に描き出すことの重要性が指摘された。
毎月第3土曜日 10 時~ 12 時、はなび・アム(大仙市)で実施。希望者はご連絡を。

 

◆『大沢郷村行政日誌』(大沢郷村役場文書1540、大仙市アーカイブズ所蔵)について

郡役所勉強会で話題になった齋藤正幸(1850-1925、大沢郷宿村の田村家に生まれ、同村齋藤家に婿養子)が明治30(1897)年から33 年にかけて記したもの(「仙北郡大澤郷役場」の罫紙に筆書き)
です。齋藤は戸長を務めた後明治22 年大沢郷村初代村長、その後数度村長職にあり、『日誌』作成時もその職にありました。
序には「(行政日誌は)村史ヲ編ムの史料ナリ。後ノ識者行政執務日誌ヲ採リテ以テ村史ヲ編マハ、百世ノ後、百世ノ昔ヲ視ルコト猶今ノ今ヲ見ルカ如クナラン。」とあります。日々の行政執務の記録ですが、村会議決や国・県との往復文書などで重要としたものは内容も記載しています。英照皇太后死去の弔辞や貧民救済のため外米購入、学齢人数と就学人数の調査、義和団戦争の情報と対応、十七連隊演習の感謝状など興味深い記録が多いです。
希望者にはCDに入れたデータを頒布します。下記の荒川までご連絡ください。

◆会員近業

秋田県選挙データ2022』について
秋田県の選挙について、精力的に論文執筆している伊藤寛崇氏が自らの研究のための
基礎データとしてまとめたもので、400 頁以上に及ぶ膨大なデータベースです。貴族院
や衆参議院議員選挙、県会議員選挙、秋田市長選挙、秋田市議会議員選挙、郡会議員選
挙などについて候補者名、党派、得票数などの基礎的な数字を網羅しています。県選出
貴族院多額納税者議員一覧から始まり、平成の大合併16 年後の市長選挙結果(最新は昨
年四月の能代市長選挙)まで収録。多くの興味深いデータがあるが、例えば貴族院多額
納税者議員互選人一覧(明治23 年~昭和14 年)には直接国税納入額の内訳が地租、所
得税、営業収益税毎に記されています。これにより50 年近くのスパンで県を代表する名
望家たちの変動や個別の資産状況の変遷を伺うことができます。伊藤氏一人でデータ収
集・整理をするなど、完成には膨大なエネルギーを費やしたものと思われます。

2022/秋季研究会終わる

報告者の柴田氏

11 月26 日大仙市はなび・アムにおいて秋季研究会が開催されました。当日は発表者
3名を含めて9名(内会員以外の方2名)の参加でした。
最初の報告は柴田知彰副代表委員による「小坂鉱山煙害問題をめぐる郡制期の地方自
治―郡役所文書群の構造分析、郡会議事録の分析等より―」でした。
明治末から大正期に鹿角郡北秋田郡で大問題となった小坂鉱山煙害問題について
郡役所文書と郡会議事録を分析し、郡役所と郡会の対立・連携を明らかにしました。
これにより県会・郡会議員に代表される地方自治と県知事・郡長の進める地方統治
(支配)の関係解明に取り組んだものでした。ただし大正15 年の郡役所廃止後、郡
役所文書は県庁への移管時の廃棄・散逸が多いという。北秋田郡は昭和初期に3,000
冊余りの簿冊を整理した昭和6年「元北秋田郡役所簿冊目録」は存在するが、名簿記載された簿冊は殆ど散逸して煙害問題に関する簿冊は1冊も残っていないとのこと(当該時期の郡会議事録は残存)。また煙害問題発生地である鹿角郡では、鉱煙害賠償交渉の経過を記録している大正5年「鉱煙害関係事務簿」機密が1冊存在しているのみという。
以上の史料的制約の下で北秋田郡役所「簿冊目録」を構造分析。煙害問題関係簿冊名
を抽出し、当該簿冊作成の背景を郡会議事録から解明している。その中で判明したこと
北秋田郡会議員泉清(釈迦内村、後県議会議員)らの煙害問題をめぐる活発な活動で
した。郡長への煙害調査建議や県知事・内務大臣への郡会意見書提出、上京しての貴衆
両院への請願や政党を問わず有力代議士への働きかけなど精力的に活動している。これ
らの活動からは明治40 年代までに成長した地方自治の力が反映されているという。
一方鹿角郡役所の大正5年「鉱煙害関係事務簿」機密の分析を通じて、煙害賠償交渉をめぐる郡役所と郡会、地主層の内実を分析。その中で判明したことは第一次大戦勃発
による銅(薬きょうの原料)の生産増大という国策のもと煙害が激甚化する中、小坂鉱
山経営の藤田組と地主・小作人の期成同盟会間の賠償契約更改問題をめぐる動きである。
藤田組の同盟会切り崩し工作や郡会の対応、町村の内情について郡長は県知事へ藤田組
を擁護する立場から「秘」・親展で逐一報告しているという。
以上を地方自治と地方統治の視点でみると、郡会(地方自治)は意見書というルート
で県・国の官公庁(地方統治)に働きかけを行い、一定の効果をあげていること。煙害
問題のように地方自治と地方統治が対立する場合、郡長は統治体制側の官僚として動い
ていること。地方自治は地主中心の自治であって小農や小作人の利害とは必ずしも一致
しないなどが指摘できるとした。
発表前半は最も体系的に残る雄勝郡役所文書群をモデルとして構造分析を行い、文書
シリーズ(鉱業や煙害対策など機能ごとに分類したグループ)の変化から時期ごとの地
自治の構造変化を明らかにしている。これについては時間の関係から簡単に触れたの
みであったが、雄勝郡役所文書群を一般化することで、他の郡役所文書群の廃棄や散逸
で欠落した文書が何であったかの類推が可能となり、重要な内容であると感じた。詳し
くは秋田近代史研究61 号に掲載されている同名の論文を参照されたい。
この報告は柴田氏の30 年間に及ぶ公文書館勤務の集大成の一部と聞いています。秋田
近代史の未開分野に果敢にチャレンジしている同氏の集大成の完成に期待しています。

報告者の水谷氏

第2報告は水谷悟(静岡文化芸術大学)氏による「大正期の雑誌メディアと秋田県
の読者~『中央公論』『第三帝国』『種蒔く人』を事例に」でした。
大正デモクラシー」期の政治と社会について、政党政治の成立と民衆運動の展
開に雑誌メディアがどのようにかかわったのか。また民衆へのデモクラシーの浸
透はどうであったのかを、「大正デモクラシー」期の思想・運動を牽引し、かつ秋
田県出身の言論人が深く関わった『中央公論』、『第三帝国』、『種蒔く人』を対象
に分析したものである。
滝田樗陰(秋田市手形新町出身、叔父町田忠治)が編集長として辣腕を振るったのが『中央公論』である。滝田編集長の時代(1912 ~ 25)は当初、反政友会勢力の結集をめざす高名な政治家の寄稿を多数掲載するなどして政局に一つの動きを作り出したという。また町田忠治が1912 年の総選挙で衆議院議員に初当選(立憲国民党)しているが、町田の政治的な動きと滝田編集長の『中央公論』の論調には親和性があるとしている。
第一次世界大戦期には吉野作造などの学者や評論家を登用、「民本主義」の提唱など普
通選挙による政党政治の実現をめざす論陣を張っている。その後はロシア革命をうけて
吉野作造の「社会主義」や「国際協調主義」への理解と接近を示す論文が寄せられてい
る。同誌は執筆者を見てもわかるように「一流大家主義」を標榜し、知識人やエリート層を読者とする総合雑誌といえる。しかし読者からの投書は皆無であるという。
石田友治(望天、土崎出身、元横手教会牧師、元秋田魁新報記者)は『第三帝国』(茅原華山率いる益進会同人が発行)の編集主任(1913 ~ 1915)であった。同誌は営業税全廃運動や普選請願署名運動のキャンペーンなどの政治運動もするが、茅原が「無名新人の技倆手腕を紹介する機関」と述べたように、読者が意見を公表する場である投書・通信欄の充実が特徴であったという。
投書は全国各地から寄せられているが、石田の存在のせいか特に秋田からの投書が群
を抜いて多いという。投書が連鎖を呼び、双方向的な意見交流の場となっているが、県
内では島田豊三郎や若松太平洞、村田光烈、畠山花城、金子洋文らが投書しているとい
う。また全国33 ヵ所の益進会支部があり、県内は横手・北浦・能代の3か所にあったと
いう。県内3支部の調査の結果、メンバーは20 ~ 30 歳代の地元商店の若旦那や牧師、
小学校教員などで、これは旧制中学校卒の地域の知識階層であるという。投書の充実や
各地の支部活動、益進会東北講演旅行などで読者の結集強化を図ったという。
第三帝国』の愛読者でもある金子洋文や仏で反戦平和と共同戦線の思想を体験した
小牧近江らを中心に1921 年『種蒔く人』が創刊。土崎版・東京版あわせて250 通にも及
ぶ投書が掲載されたという。実名不明の投書が多いが、秋田からは浅野吉十郎(職工組
合書記長)や天川佐吉郎(小作人)、磯川潤子(婦人運動家)らの投書が掲載された。
秋田は「大正デモクラシー」期における政治・言論・思想の震源地の一つであったと
いう。今後、雑誌メディアの政治思想運動や文化運動を秋田の読者がどのように受容・
変容したかという視点から歴史像を再構築する必要があるという。その場合投書欄は雑
誌の今日の「読者」が明日の「論者」に変わっていく可能性を持った双方向的な言論空
間であり、この分析が重要であるとした。また民本主義を説く吉野作造の論文が『中央
公論』に掲載され「大正デモクラシー」の理論とされたことはよく知られている。しか
しこの論文は長文難解であり、どれだけの国民が理解しただろうかとの指摘もあった。
水谷氏には既に秋田県内の益進会支部の分析も織り込んだ『雑誌『第三帝国』の思想
運動茅原崋山と大正地方青年』(2015 年、ぺりかん社)がありますが、今後本報告の
内容も本にまとめることと思います。大いに期待しています。多くの史料を準備してく
れたのに報告時間が足りなかったことを運営担当として申し訳なく思っています。

報告者の清水氏

午後からの第3報告は清水翔太郎氏(秋田大学)による「近代における秋田藩主佐竹
義和の顕彰と旧藩士」でした。
佐竹義和は江戸時代中期の藩政改革を主導した熊本細川重賢、米沢上杉治憲とならぶ
「名君」とされている。しかし細川、上杉とは異なり義和の「名君」像は近世には無く、明治末年以降の旧藩士による顕彰活動により「名君」像がつくられたというのである。
近世の佐竹義和関連資料の分析から、義和期は学館創設や職制改革の点では画期であ
り、その記録を後世の参考にするための史料編纂(『御亀鑑』)が没後行われる。また本人著作の巡検記録から義和=「仁君」像が家中で共有されはする。しかし義和の特定の事績を顕彰する動きは見られないという。
それが明治42 年、秋田市長であった大久保鉄作(旧藩士、秋田日報主幹、県会議員、衆議院議員の経歴、明治39 年~大正5 年秋田市長)が伊藤博文に義和筆の山水画と略歴を贈り、義和の功績を明治天皇が知ることがきっかけで義和顕彰活動が始まるという。大久保は伊藤から義和の事績をまとめることを勧められ、大正3年秋田の新聞に「天樹院公逸事」として55 回にわたって連載する。そしてこの連載を修正・加筆して大正5年『天樹院佐竹義和公』を刊行する。『義和公』の中で戊辰戦争後勤王の功績が報
いられなかった理由を義和没後その遺志を継ぐ人物がおらず人材養成が及ばなかった点
に求めている。刊行の意図は義和の遺志を共有し教育や産業の振興を図ることで、本県
の飛躍、帝国の発展に寄与することとしている。こうして郷土愛、愛国心の涵養に結び
つけて、教育・産業の振興を図った「中興の名君」義和像が確立したというのである。
大正4年に大正天皇即位大礼で贈位内申(内申書事績は『義和公』を簡略化したもの。
『義和公』執筆と並行して作成されたか)が行われたが贈位はなく、3年後の大正7年
陸軍特別大演習(栃木県・茨城県)で従三位が追贈されることになる。
従三位追贈後、義和顕彰運動は大きな広がりを見せる。天樹院公頌徳集編纂会が秋田
市長・衆議院議員・新聞人・漢学者などの県内有力者を中心に豪農商の賛助を得て結成
され、大正10 年には『佐竹義和公頌徳集全』が刊行される。刊行の経緯は「中興の名君」義和への従三位追贈を機に、事績を旧藩士及び領民で共有し後世に伝えるために編纂会を結成。義和を讃える「頌徳詩歌」を募集し、伝記を加えて刊行したという。こうして顕彰は一部旧藩士の枠を超えて秋田県民全体へ広がっていったという。
今後の課題として、旧藩士による歴史叙述と史料収集の視点から秋田史談会(明治42
年創設、構成員は天樹院公頌徳集編纂会と重なる)の活動を解明したいとの事であった。
私はかつて日本史授業の際、寛政期諸藩の改革は細川重賢・上杉治憲・佐竹義和の3
人の「名君」がそれぞれ藩政を主導。藩校を設立して有能な人材を登用し、殖産興業政
策や専売制により改革を進めたと教えるのが常であった。義和を在世中からの「名君」
として、「義和=名君」像は私にとって自明のことであった。その「名君」像が明治末年以降の旧藩士による顕彰活動で作られたという説は衝撃であった。研究会の直前、たまたま読んだ歴史評論2022 年11 月号に「今という時代をつくるために過去を操作する」(マイケル・カメン)という言葉が記されていた。この言葉を敷衍すると、旧藩士にとっては過去の義和を「名君」と操作することで、現に旧藩士が生きていた明治末から大正の時代の秋田をどのようにつくりたかったのだろうかと考えてしまう。地方改良運動との関係や近代における近世像創出のあり方を考える点からも、今後の分析に大いに興味が持たれる。